江藤淳は日本を代表する文学評論家の1人である。小林秀雄死後は文学批評の第一人者とも表された。しかし1998年、彼の妻が末期がんを患ってしまう。日々体は弱り、医師からも余命宣告がされるなかで、江藤は妻に告知をするべきか迷う。江藤の選択は、優しい嘘をつくことだった。※本稿は、江藤淳『妻と私・幼年時代』(文春学藝ライブラリー)の一部を抜粋・編集したものです。
突破口の見えない日々
「告知せよ」と医者は言う
その晩、私(編集部注/江藤淳)は寝床にはいってもY院長のいった「告知」という言葉が頭のなかで鳴りつづけて、なかなか眠りに就くことができなかった。
鎌倉の、奥まった谷戸の入口に建っている家の2階の寝室なので、聴えるものといったら家内と犬の規則正しい寝息だけである。
この寝息の一つが遠からず停止するということを、そしてそれがほかならぬ家内その人の寝息だということを、夫である私が家内に告げるのを「告知」というのだろうか? 何故そんなことをしなければならないかといえば、医者が家内は「転移性の腫瘍」、つまり「末期癌」だと診断したからということになる。
しかし、その医者は、当の本人には「脳内出血」だといっているのだ。そして、家族には本当の病名を告げて、家族からそれを患者に「告知」せよという。あからさまにそういうわけではないが、どうせ助からないのだから、観念して「告知」したほうが、結局お互いのためだというニュアンスは否定できない。
これは患者にとってはもちろん、家族にとっても残酷きわまる方法ではないか。しかも、「告知」の責任だけを負わされて、患者を救うことのできない家族にいたっては、あまりに惨めというほかないではないか。その反面医者はといえば、「告知」の責任は一切家族に任せて、万事お見通しの絶対者の立場に立つことができる。あなたの余命は何ヶ月しかありませんよ、まあ、せいぜい有意義にお過しください。……
いくら現代の流行であるにせよ、このからくりには容易に同調できない。現に家内は何も知らずに、あんなに安らかな寝息を立てて眠っているではないか。人の生きたいという意欲と希求とを、そう易々と奪い去ることができるだろうか。まして私は家内にとって、たった一人の家族であり、夫だというのに。
しかも、神でも仏でもない以上、どんな高度の専門医といえども、人の死期を正確に予知できるものだろうか。それは医者の能力というより、MRIやCTの画像の示す統計学的な確率に過ぎないのではないか。「告知」はしたくない、いや、私には到底「告知」などできるはずがない。
家内と犬の寝息を聴きながら、そこまで考えたとき、曲りなりにも決心が定まった。「告知」はしない。しかし、その責任はもちろん私自身が取らなければならない。それが何を意味するのか自分でもよくわからぬままに、私はいつの間にかまどろみはじめていた。