いろんな友だちの葬儀に出て、おれが死んだときは誰がこうやって弔辞を読むのかなとか、誰が来てくれるのかなと思ったり、あるいはもう誰もいないところで、ひっそり葬儀されるのかなとか、いろいろ考える。現実には死んだら自分の葬儀は楽しめない。
それを生きているうちに会費をとって友人を集めてワインなんか飲みながら宴会するなんて図々しいにも程がある。生前葬はルール違反ではないか。
葬式は形に則ってたんたんと進める。寺の住職が来て死後の話とかして、法要の何回忌、何回忌で親戚中が集まるのがいい。親戚なんてだんだん法要のときしか会わなくなってくるから、集まるたびに人間の生死のことをいろいろ考える。
葬式に出ると家族って何だろうと考える。誰かが死ぬと残された者たちが逝った人たちをともに供養して、それが繰り返される。そのつながりが家族なのだろう。死者のための、残された者たちの寄り合いが家族だ。
そういう意味で「おひとりさま」のつらいところは家族の死に出会えないことだ。自分の死しかない。両親とかきょうだい、あるいは親しくしていた従兄弟とか、そういう人が死ぬことによって、いやがおうでも死の意味を学習することになるが、「おひとりさま」にはそれがない。「おひとりさま」の生き方は家族を捨てることでもある。それなりの覚悟が要る。
一瞬の事故死でないかぎりつきまとう
「死ぬとどうなるか」という不安
親しかった友人がどんどん死んでいきます。親や兄弟も死んでいきます。葬式に行くたびに「人は死ぬ」という厳然とした事実を突きつけられる。親しかった人の死は、半分は自分の死でもあり、「自分もいずれ死ぬ」と覚悟することになる。葬式の効用は友人や親の死を受け入れ、供養するだけでなく、自分の死を確認するところにあります。いずれ自分も死ぬ、という覚悟が生まれる。
死んだ人は記憶の中に生き続けますが、5年、10年もたつと少しずつ忘れられていく。これは時間が供養してくれるのです。
歳をとると、上手に逝きたいと考える。