宗教もふくめて、死のイメージトレーニングが求められる。親の死にあい、親しい友人を失うたびに「死の意味」を問い、体験し、学習していくのです。
死後の世界を信じる人は、信心力の強い人です。しかし宗教に帰依していない人は自己の死をどう受け入れればいいのでしょうか。現実には、死んだ時点ですべてが完結します。「生きている人の世の中」とはまことにうまいことを言ったもので、この世は生者だけのために存在するのです。
死は恐怖であるとともに
最後の「愉しみ」
母の命日には墓参りをし、家には小さな仏壇を置き、両親の遺骨を拝んでいます。食べ物や花を供えます。これは来世を漠然と信じているからだ。父の遺伝子が私の肉体の中で生きているのだから、「自分の中に棲む父」と対話するのかな、と考えたりする。これを「死者が自分の心の中に生きている」という言い方をします。

縁によって結ばれた霊が、生前の縁により再会するのです。とすると、この世は生者と死者が共存している宇宙になります、これは漠然とした信仰で、体系づけられるものではない。
いっさいのものは生滅、変化して常住しません。無常迅速とは人の世の移り変わりが早いことで、歳月は人を待たない。人間は期限つきの消耗品であるところに趣があります。
死にゆく人が取り乱さないためには「ひたすら仏を信じる」のが有効ですが、この世は仏の顔をした鬼ばかりで、私も鬼のひとりかもしれない。死んで焼かれて墓に入るのにもお金がいるという世の中です。
しかし、死は恐怖であるとともに最後の「愉しみ」でもあります。平穏に死を受け入れるためには、どのような知恵をつければいいのか。死の意味を知るために人間は生きている、といってもいいのです。