葬式に参列する子ども写真はイメージです Photo:PIXTA

誰もが考える「人は死んだらどうなる?」を、作家・エッセイストの嵐山光三郎83歳が深く掘り下げる。死ぬことは恐怖であるとともに、人生最後の「愉しみ」である。大事なのは、どうやって「上手に逝く」かだ。嵐山流のベストの死に方とは?本稿は、嵐山光三郎『爺の流儀』(ワニブックス【PLUS】新書)の一部を抜粋・編集したものです。

死の瞬間はわずか0.0000001秒
そこにあるのは生前と死後だけだ

 僕はいままでいろいろな旅行記を書いてきましたが最後にたどりついたのが「廃線」でした。廃線探訪は日本人が得意とする分野で、古人は失われた名所旧跡や歌枕を捜して旅をしてきた。栄枯盛衰は時の流れで、栄えていたものは必ず滅びる。その滅びの中にこの世の仕組みを見ようとしたのだが、やってみたらこれが命がけの探検だった。なくなった鉄道を供養しようという殊勝な気持ちで始めたのだが、とんでもない領域に踏み込んでしまった。

 で、つぎになにかあるかなと考えて思いついたのが「冥界紀行」です。「死んでからこういう旅をしましょう」という紀行を書こうかなと思っている。

 子どものころ、死ぬことは怖いのと同時にある種の楽しみでした。

 田舎の法事に行くと、親戚のおじさんたちが、死んだらどうなるかっていう話をしている。おじいさんが死んで7回忌のときだったか、理工系の叔父は「死は無だよ。もう何もないんだ、ぽんと終わっちゃうんだ」と言う。すると海軍に行ったおじさんが「戦艦大和だよ。三途の川なんて渡らず太平洋を渡るんだ」とホラを吹く。

 みんなの話をニコニコ笑って聞いていたよそのおじいちゃんが「仏間に入るようなものだ」という。田舎の家には仏間があって、そこのふすまを開けて中に入るようなものだって。小学生のころ、そういう話を聞くのが面白かった。

 いつだったか横尾忠則さんと話したら「死はない。死の瞬間は0.0000001秒くらいだから死はない。あるのは生前と死後だけだ」と。なるほどと思った。現実は、死ぬことは「自分が死んだ」という意識もなくなってしまう状態で、自分ではわからない。他人の死はわかるけれど自分の死は体験できない。だから親戚の子どもたちと「死ぬとどうなるか」を話し合った。

「四十九日には輪廻転生して帰ってくるんだよ、だから死んだって怖くないよ」と予測し、どれが本当なのかなと思いながら、畏れと同時に死後への憧れを持つということがあった。本当のことは死んでみなくちゃわからない。