おだやかに逝きたい。死ぬときにとり乱さない、遺族に葬式で迷惑をかけない、すーっと楽に死んでいきたい、配偶者に看取って貰いたい。子がいる人ならばわずかな遺産争いをしないでほしいと思う。
なにより重要な心配ごとは「死ぬとどうなるか」という不安です。うまく極楽浄土へ行けるかどうか、無宗教の人はどうしたらいいのか。
結果は死んでみないとわかりませんが、死は「自分が死んだ」という意識をも消滅させる。人間は自分の死を体験できない。
生理学的に考えると、人は死ぬときに、最後の最後に自分の死を受容することへの抵抗を試みます。交通事故などで一瞬ですんでしまえばそんな暇はありませんが、即死せずに数時間手当てされて死ぬ場合は「このままでは死ねない」ともがき、「なぜ自分だけが死ぬのだ」という葛藤に苦しみます。数時間が数日にわたれば、それはいっそうの苦しみになる。それは痛みによる苦しみとは別に、「死を受容する決意」の葛藤といってよいでしょう。
むしろ残された人間に
傷は深く残る
また、不治の病と認定され、「あと数カ月の寿命」と知れば、自分の死を納得させる葛藤が生まれる。いかに悟っていても自分の終焉を納得するのは難しい。それは人間の最後の戦いといってよいでしょう。
死にゆく人に向かっても、同じく葛藤がある。「人間はいつか死ぬのだから……」とは言えませんし、「これがあなたの運命だ」とも言えません。むしろ残された人間に傷は深く残るのです。ことに逆縁で子に先立たれた親は、いつまでも「なぜだ」と問いつづけ、心の傷が癒えるときはありません。
歳をとると自分が死ぬことも現実味を帯びてくるから、ついわかったようなことを言いたくなる。「人間は死ねば腐って最後はゴミになるだけだ」とか「腐らないように焼いても骨になって墓に埋められるだけだ」と悟ったような顔をしたくなる。本人が納得しているならそれでいいかもしれないが、自分より若い人に言ってはいけません。
もし子どもが「死んだらどうなるの?」と聞いてきて、親が「ゴミになるだけだ」と答えればどうなるか。逆縁になったらどうするのか。子どもに先立たれてしまったらただでさえ悲しいのに。