歴史を書く人は
デフレ経済のほうが好き?
戦前も戦後も、歴史の教科書では意次時代の賄賂政治が批判されてきた。たが、歴史学者の大石慎三郎が1991年に出版した『田沼意次の時代』で従来の意次批判を徹底的に反証し、私も読んで大変感心した。文学では、平岩弓枝の『魚の棲む城』が善玉としての意次を主人公とした初めての時代小説といえる。
堺屋太一もこの風潮の定着に大いに貢献した。「歴史を書く人は、公務員である下級武士が多いので、デフレ経済のほうが好き」という説明が、堺屋氏らしかった。
意次の父・意行は、紀州藩の元足軽の子(父親は病気で辞職)だったが、知り合いの武士の娘婿になって仕官できた。たまたま、部屋住み時代の徳川吉宗に仕え、吉宗が紀州藩主から将軍となると、600石の旗本に抜擢された。
吉宗は紀州藩から100人ほどの有能な中堅武士だけを幕臣にした。意行の子の意次は、さっそく継嗣である徳川家重の小姓になり頭角を現した。家重は子の徳川家治に将軍位を譲る時、意次を重用するように申し渡した。
意次の政策は、吉宗の改革のうち、前向きな試みを発展させ、反動的、あるいは経済理論として無理なところを修正したもので、だいたい適切なものだった。
吉宗は稲作から上がる年貢に頼る家康以来の税制にこだわり、新田開発で米を増産しようとした。紀州藩時代には、これで成果を上げたが、将軍として同じことを大規模にしたところ、全国的に米価が下がって財政は悪化した。
その後、年貢の取り方を、毎年の作柄に応じた検見法から定額の定免法に変え、安定はしたが、農民が努力して増産した分を税収に反映できなくなった。商品作物の作付けは増えるし、産業も盛んになったが、そこから上手に税収を上げられない。
つまり税収は横ばいで国民負担率が下がる一方、武士も民間に合わせて生活がぜいたくになったので窮状が深まった。
そもそも、豊臣秀吉も年貢を税収の基礎にしたが、直轄地は少なく、鉱山や貿易で収入を上げた。徳川幕府は広い直轄地を持っていたが、鎖国して貿易は縮小したし、4代将軍家綱のころ、善政を気取って蓄えをなくし、元禄時代からは金銀の産出も減った。
意次は、吉宗の政策の限界も近くで見たし、郡上騒動(美濃)の処理を担当し、無理な年貢取り立てが農村を疲弊させて一揆になったと知り、賢明にも米以外に財源を求めた。
藩政改革に成功した
各地の名君たち
このころ、細川重賢(熊本)を皮切りに、上杉鷹山(米沢)、毛利重就(長州)、島津重豪(薩摩)など、藩政改革に成功した名君が各地で出てきた。内容は倹約や新田開発、殖産興業と専売制、藩校の充実など教育、人材登用などだった。
なかでも、すべてにわたって行き届いた改革を行ったことで、誰からも批判されていないのが上杉鷹山だが、彼ですら試行錯誤を繰り返して成功したのである(拙著『小説伝記 上杉鷹山』PHP研究所)。
こうした改革は、方向性は正しくとも、細部の巧拙もあるし、殿様の人心掌握もさまざまだ。藩の事情に合っているかも問題だ。尾張の徳川宗春は積極財政と経済や風俗の自由化でしばらく成功したが、産業育成をしなかったので、ほどなく財政悪化で沈没した。現代で言えば「積極財政で金をまけば成功する」というようなものだ。