![【大河ドラマ・べらぼう】写楽が暴いた「役者の本性」タブー破りの「毒」が強力すぎた](https://dol.ismcdn.jp/mwimgs/4/3/650/img_4305245568aed85aaf01da681a428583228141.jpg)
江戸の街に彗星のごとく現れ、たった10ヵ月で姿を消した謎の絵師・東洲斎写楽。まったく無名だった彼を見いだし、世に送り出したのはのちに江戸のメディア王と呼ばれる蔦屋重三郎、通称「蔦重」だった。NHKの大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の主人公でもある蔦重は、どのような方法で写楽をプロデュースしたのか。蔦重が仕組んだ写楽の一大プロジェクトに、作家の増田晶文氏が迫る。※本稿は、増田晶文氏『蔦屋重三郎 江戸の反骨メディア王』(新潮選書)の一部を抜粋・編集したものです。
無名だった写楽を発掘し
強引な売り出し作戦を敢行
蔦重は一流の策士だが、かなりの慎重居士でもあった。
吉原細見(編集部注/吉原遊廓のガイドブックに相当)にはじまり狂歌(編集部注/俗語を用いたこっけいな短歌)、黄表紙(編集部注/しゃれと風刺をきかせた絵物語)、美人画……いずれも一気に攻勢を仕掛けて人気爆発という成功を収めたが、それらの裏には充分な手回しがあった。
蔦重にとって役者絵進出は蔦屋耕書堂の命運をかけた大プロジェクトに他ならない。それだけに絵師の人選にはこれまで以上に力を注いだことだろう。
だが、蔦重は無名の新人を登用するという、彼らしからぬギャンブルに打って出るのだ。
蔦重が白羽の矢をたてたのは東洲斎写楽だった。
今でこそ写楽の名は「四大浮世絵師」――歌麿、北斎、広重と共に語られている。だが、寛政6(1794)年5月に写楽の役者大首絵28点が同時開板(編集部注/版木を刷り、本を印刷すること)されるまで、絵師写楽の名は江戸では誰も知らなかった。何しろ、写楽はそれまで一度とて挿絵や錦絵を発表したことがなかったのだ。
もちろん、蔦重にとってこんなことは承知のうえ、それでも豊国に対抗すべく強引ともいうべき売り出し作戦を敢行する。
まず、28点がすべて大判黒雲母(きら)摺りの大首絵というのが尋常ではなかった。
雲母摺りとは雲母(うんも)あるいは貝殻の粉末を膠(にわか)で溶いて背景を塗りつぶす手法をいう。きらきらと光り、豪奢で高級なイメージを与えてくれる。現代ならメンバーズカードやキャラクターシールなどにみられる、光を反射させるホログラム加工に相当しよう。蔦屋耕書堂が本格的に打って出る役者絵、写楽のデビュー作を雲母摺りにしたのは蔦重の発案だろう。なぜなら、歌麿の美人大首絵で雲母摺りの効果は実証済みだった――。