蜂須賀重喜(徳島)のように、藍の流通の主導権を大坂商人から奪おうとして返り討ちに遭った殿様もいる。藩校を創設しても、細川重賢は禁欲的に算術を学ぶことを禁じ、松平定信は蘭学を抑圧した。

 江戸中期には大名改易がほとんどなくなったので、有能な人物の新規雇用も出世も難しくなった。吉宗は上高制で抜擢者に臨時の役職手当を出して人材登用したが、世襲組に比べて不満は大きく、賄賂に走った。

 意次は5万石まで出世したが、綱吉に登用された柳沢吉保の15万石に比べたら少ない。家臣については、農民でも積極的に採用したが、これは例外的だった。意次自身は比較的クリーンだったが、側近が賄賂を取るのを抑制できなかった。

もしも意次が大名だったら
改革に成功していただろう

 もしも意次が大名だったなら、藩政の立て直しに必ず成功しただろう。老中としての権力と財力が背景だったから割り引かねばならないが、領国の遠江相良では成功した。道路や港などのインフラ整備、特産品や町並みの防火を兼ねた瓦づくりなどをしている。

 老中として、大名たちと違うのは、貨幣の改鋳とか、乾隆帝の時代でグルメブームに沸く清国への俵物(ナマコなど)の輸出、蝦夷地の開発などだった。新田開発では印旛沼の干拓を試みている。

 産業では、株仲間や会所を設立させ、彼らに独占利益を保証し、インフレの防止を約束させ、運上金・冥加(みょうが)金を吸い上げた。当時は消費税のようなものは無理だったから、こういう形しか取れなかった。カルテルには弊害もあるが、当時としては、間接税の取り方としては現実的だった。

 蝦夷地開拓は、ロシアが1648年にオホーツク海に姿を現していたが、鎖国していた幕府は気づかなかった。1771年にハンガリー人ベニョフスキーがやってきてロシアの進出を報せた。

 意次は素早く反応し、ロシアとの交易や開墾を企画するが、交易はメリットが少なそうで、寒冷地での開墾は大変そうなので断念。それでも、カムチャツカまで日本領のつもりだったので、ロシアの支配地拡大に歯止めをかけ、一方で通商にも前向きだったのは評価したい。

 長崎会所(税関兼商社)の経営が再建されるなど、貿易に前向きな印象はあるが、長崎での限定した貿易だけでは、文明が十分に入ってこない。

 ロシアに対しても、多くの国と長崎などで付き合っていたら情報も入ってきたし、最新兵器だとか造船、防寒具、寒冷地作物も導入できたのであるが、鎖国を続ける限り限界があった。

 ただ、意次が失脚した後、松平定信は「蝦夷地を開発するとロシアをおびき寄せる」「オランダ人と日本人は身体が違うから蘭方医学も不要」「朝鮮通信使は日本が後進国であることがばれるから対馬から先には入れるな」「民間人の生活が向上しなければ武士も物欲が出ない」「朱子学以外は排除する」とかいう人だったから、進歩が止まったのである。

 もし意次があと何年か政権を維持したり、同じ考え方の政治家が後継者になっていたら、意次礼賛論者が言うような経済の覚醒はあった可能性が高い。

 それに、意次の時代には天明の飢饉(ききん)など災害が大きく、経済が低迷した時代でもあった。改革や大型プロジェクトを実施するどころでなかったのは惜しまれる。つまり、意次の政策は、方向性は正しかったが成果は不十分だった。また、昨今の積極財政派の主張は、意次は増税路線なのだから、似ているわけでもなかった。

(評論家 八幡和郎)