スターやタレントが秘密主義であったからこそ、隠されたプライベートや本性を暴くスキャンダルやバッドニュースを発信するゴシップ記事が楽しまれたわけだ。
VTuberはどうだろう。このことを考える上で、筆者の考えとして導きの糸となる概念を提示しておきたい。それは「メタ・ネタ・ベタ」(*)である。
(*)…筆者は以前、東浩紀の『波状言論S 改』(東[編著]2005)、佐々木敦の『ニッポンの思想』(佐々木2009)、マキタスポーツの『一億総ツッコミ時代』(槙田2012)に登場する「メタ、ネタ、ベタ」という言葉を参考に、VTuberについて著した文章を書いた(草野2023)。
まず「ベタ」とは、ひねりがなく面白みのないプレーンな状態のことで、VTuberというフィルターを通す前の活動者自身の本人性そのものである。
次に「ネタ」とは、活動者本人が体験したことを元にしたエピソードや、制作する事物のことである。配信内でリスナーが観察可能な出来事の場合もあれば、配信外で体験したこととして語られるものもある。音楽に合わせて歌を歌ったり、グッズを制作したりすることもここに含まれる。
最後に「メタ」とは、活動者本人では手の届かない領域のことである。たとえば、VTuberのビジュアルを用いたファンによるコスプレや、VTuber同士の関係性を基にしたオリジナルストーリーの創作などの同人活動が含まれ、主にリスナーやファンが主導することが多い(草野2023)。
VTuberの魅力をこの用語を使って説明すると、VTuberとしての活動は「ネタ」の水準であり、その奥から「ベタ」がのぞく状態と表現できる。つまりVTuberは、「ネタ」を通しながら、「ベタ」を公開し続けることが求められてしまう。
リスナーやファンは、VTuberのプロフィール(設定)をもとに様々な妄想を広げ、ときに二次創作した作品、つまり「メタ」な世界が展開されていく。
だが、「メタ」な世界がどれだけ広がっていっても、活動者本人の内面やプライベートな部分には大きく影響はしてこない。「ネタ」の水準にある神秘性は大きく増える余地はなく、「ベタ」の水準にある本人性が公開され続けるわけだ。