「治す場」と「治る場」

 軽井沢は避暑地、別荘地として全国的にも有名ですが、保養地としても知られています。保養地には「心身を休ませて健康を養い保つ場」という意味があり、都市生活によって疲弊したわたしたちの心身の全体性を取り戻す役割があると言えます。

 医療職を職業として選択した時にはうまく言語化できなかったのですが、今思い返してみると「病気」のことではなく、「健康」のことを探求したいと思っていたのだと気づきました。

 ちなみに、わたしは健康になれる場として病院があると思っています。さらに言えば、暮らしている町自体が健康になれる場であれば、日々の暮らしが幸福になるのではないかとも思っています。

 そうした意味でも、軽井沢には、新しい医療の場としての可能性があるのではないかと感じています。なぜなら、医療の場が目指すべき究極の形は、「自然に治癒が起こる場」を創造することだと思うからです。保養地とは、まさに「ただいるだけで元気になる場」を人が追い求めて辿り着いた一つの答えではないかと思います。

人間関係が複雑に織りなす社会を生きていくうえで重要なこと、「治す場」と「治る場」の大きな違い稲葉俊郎『山のメディスン 弱さをゆるし、生きる力をつむぐ』(ライフサイエンス出版)

 一方で、これまでの医療は「治す場」であることに特化し過ぎてきたように思います。今後は「治る場」も創造していく必要があるのではないかと感じています(「治す」と「治る」は文字が一文字違うだけですが、主体も意味も全く異なるのですから不思議なものです)。

 ちなみに、治す場は、専門的な技術を持った人が治療を行う場ですが、他者の知識や技術に依存し過ぎることに欠点があります。それに対して、治る場は「自然に治癒が起こる場、誰もが生まれながらに持っている自然治癒力が最大限に発揮される場」を、もう一度発見していくことを指します。

 もちろん、わたしはいずれかの優劣を述べたいわけではありません。治す場と治る場が共存しながら、ともに場を生かし合う関係性を構築していく必要があると思っています。そして、治る場を再発見していくことは、保養地を新しい視点で見つめ直すことでもあります。

いのちを中心にした軽井沢の街づくり

 軽井沢の保養地としての歴史は、明治時代にカナダ人宣教師のアレキサンダー・クロフト・ショーが軽井沢を訪れたことに始まります。ショーが軽井沢の美しい自然に感動し、出身地のカナダと気候的にも似ていたことから、別荘地をつくって住み始めたことが保養地としてのルーツとされています。

 また、軽井沢はキリスト教の清貧の思想に影響を受け、「自然保護対策要綱」という法的拘束力を持たない約束を遵守しています。

 あくまでも守るべき約束として住民の間で大切にされてきたのがとても興味深いところです。例えば、自然保護の観点から一区画の敷地の広さや建物の高さ、建ぺい率や容積率に始まり、家の塀は基本的にはつくらないことなどの詳細も決まっています。

 こうした考え方は、わたしたちが暮らす土地を人間だけでなく、動物や自然なども中心に据えたあらゆる「いのちの居場所」として保つ工夫と言えるのではないでしょうか。

 地球上には人間以外にもさまざまな生きものがいます。鳥の居場所は高い木であり、細菌や虫の居場所は土の中です。そうした多様な生きものの居場所を考えるようにして、自然保護対策要綱が存在していることに感銘を受けました。

 この街では自然への礼節を保ちながら、人間界のルールをつくり、自然と人間の間の心地よい距離と適切なバランスを維持し続けているのです。法律ではないため、罰則はありませんが、あえてそうしたゆるやかな約束ごとを守ってきたことに対し、強い哲学を感じました。

 こうして軽井沢独自のルールは、住まいだけでなく、景観や街並みをつくり、軽井沢はただいるだけで心身が休まる保有地として発展していきました。ショーは、そうした軽井沢という場が持つポテンシャルに気づいていたのか、「軽井沢は屋根のない病院のようだ」と表現しました。

 まさに軽井沢はわたしが理想としていた医療の場でした。しかも、こうした町並みの変化は明治時代から始まり、自然保護対策要綱が明文化されたのも1970年代のことです。今からほんの140年しか経っていません。祖父母から孫へと受け継ぐような感覚で、こうした町並みや暮らしが維持されていることを考えると、わたしたちも今から取り組んでみようという気持ちが湧いてくるのはないでしょうか。

 自然を損なわないようにしながら、そして、自然界のいのちの居場所を維持しながら、人間たちが暮らす居場所をつくることは、決して夢物語ではありません。これは今からでも真剣に取り組むべき、人類の切迫した課題だと思っています。

(第3回へ続く)