
病院にアートの手法を応用するなど、多方面での活動が注目を集める医師・稲葉俊郎氏は、「生きていくうえで大切なこと、かけがえのないことのすべてを山から学んだ」と語る。哲学者であり随筆家でもある串田孫一氏の名著『山のパンセ』の現代版ともいえる稲葉氏の著書『山のメディスン 弱さをゆるし、生きる力をつむぐ』より、日々忙しいビジネスパーソンがふと立ち止まってふれるべき稲葉氏の思索を、4回に分けて紹介する。第1回目は、生きる前提条件としての「水」や「太陽」の存在と、自分自身の「いのち」とのつながりについて語る。
いのちの水
登山を繰り返すたびに、友人からなぜそこまで登山に没頭しているのか、登山の中に何があるのか、とよく聞かれました。

1979年、熊本生まれ。医師。東京大学医学部付属病院循環器内科助教を経て、2020年4月より軽井沢へ移住。現在は軽井沢病院院長・総合診療科医長、信州大学社会基盤研究所特任准教授、東京大学先端科学技術研究センター客員研究員、東北芸術工科大学客員教授に就任。「山形ビエンナーレ2020、2022」では芸術監督も務める。医療の多様性と調和への土壌づくりのため、西洋医学だけではなく伝統医療、補完代替医療、民間医療も広く修める。芸術、音楽、伝統芸能、民俗学、農業など、あらゆる分野との接点を探る対話を積極的に行う。共著に『見えないものに、耳をすます』(アノニマ・スタジオ)、著書に『いのちは のちの いのちへ ― 新しい医療のかたち―』(アノニマ・スタジオ)、『ころころするからだ』(春秋社)、『からだとこころの健康学』(NHK出版)、『いのちの居場所』(扶桑社)、『ことばのくすり』(大和書房) など。
イギリス人登山家・ジョージ・マロリーがエベレスト初登頂を目指した時に、ニューヨーク・タイムズ記者の「エベレストになぜ登るのか?」という質問に対し、「そこに山があるから」と答えたのは有名ですが、いつまでも誰かの言葉を真似ているわけにはいきません。自分が登山の何に感動し、何に突き動かされているのかについてよく考えてみました。
登山の時、わたしは常に水の重要性を感じていました。登山では自分が持つ荷物がそのまま負荷となるので、水は最小限にしながらも十分な量を運ぶ必要があります。
なお、登山地図には湧き水場の記載もありますが、時に水が涸れていることもあり、自然界での水場は貴重なのです。山奥の不便な場所にある山小屋では水を販売してくれていますが、その搬入にもとても労力がかかります。
このように、山という自然界ではとにかく水が貴重であり、重要であることを何度も痛感させられました。
また、海の塩水は飲水にはならず、雪の上でも雪や氷はそのままでは飲めません。水はあらゆる形態に変わる一方で、人間に適した状態にもなり、しかも生命と直結しています。
そんなことを考えているうちに、自分は水がいのちそのものだと感じるために、そして、水をおいしく飲み、いのちを歓喜させるために登山をしているのではないか、と思うようになりました。
頭が理屈で登山を選んでいるのではなく、身体や心が、むしろいのちそのものが、わたしを登山へと導いていると感じました。登山で疲労して喉が渇いた時に飲む水は、あたかも水の一滴一滴の粒子が全身を駆け巡り、一つひとつの細胞に滋養を与えるかのように働き掛けているように感じます。このことは登山をしたことがある人であれば必ず感じることでしょう。
とはいえ、わたしたちは生まれた時から水に当たり前のように接しています。水そのものを飲むこともありますが、お茶やコーヒー、ジュースも水ですし、野菜や肉といった食べものにも水が含まれています(乾物などは例外です)。朝になれば水で顔を洗い、歯を磨き、トイレも流し、夜にはお風呂に入ります。外を歩けば雨が降り、川には水が流れています。日常にありふれている水だからこそ、わたしたちは水と人間の生命との関わりを感じることが少なくなっているのではないでしょうか。
そうした生命の働きや輝きを間接的に気づかせてくれたのが、登山中に口にした一滴の水でした。わたしは登山の度に、この水という存在にいつも感動しています。その感動こそが登山への原動力になっていたのです。