
病院にアートの手法を応用するなど、多方面での活動が注目を集める医師・稲葉俊郎氏は、「生きていくうえで大切なこと、かけがえのないことのすべてを山から学んだ」と語る。哲学者であり随筆家でもある串田孫一氏の名著『山のパンセ』の現代版ともいえる稲葉氏の著書『山のメディスン 弱さをゆるし、生きる力をつむぐ』より、日々忙しいビジネスパーソンがふと立ち止まってふれるべき稲葉氏の思索を、4回に分けて紹介する。第2回は、お互いのことを好意的に感じられるようになるための方法、「治す場」と「治る場」の大きな違い、日々の暮らしが幸福になるための町づくりなどについて語る。
愛の本質は距離

1979年、熊本生まれ。医師。東京大学医学部付属病院循環器内科助教を経て、2020年4月より軽井沢へ移住。現在は軽井沢病院院長・総合診療科医長、信州大学社会基盤研究所特任准教授、東京大学先端科学技術研究センター客員研究員、東北芸術工科大学客員教授に就任。「山形ビエンナーレ2020、2022」では芸術監督も務める。医療の多様性と調和への土壌づくりのため、西洋医学だけではなく伝統医療、補完代替医療、民間医療も広く修める。芸術、音楽、伝統芸能、民俗学、農業など、あらゆる分野との接点を探る対話を積極的に行う。共著に『見えないものに、耳をすます』(アノニマ・スタジオ)、著書に『いのちは のちの いのちへ ― 新しい医療のかたち―』(アノニマ・スタジオ)、『ころころするからだ』(春秋社)、『からだとこころの健康学』(NHK出版)、『いのちの居場所』(扶桑社)、『ことばのくすり』(大和書房) など。
東日本大震災以降、都市生活の危うさにも不安を感じました。
震災直後は、都市部の スーパーやコンビニエンスストアからすべての食品がなくなり、さらには、トイレットペーパーまでもなくなりました。わたしは群集不安がつくり出す社会の異常な心理状態に打ちのめされました。安定した日常が崩壊したことによる不安は、トイレットペーパーにまで結びつくのです。
震災を経て東京に住んでいることに窮屈さを感じるようになり、さらに2017年に子供が産まれてからは、快適さよりも窮屈さのほうが勝るようになってきました。 東京の文化に憧れ、大学入学と同時に上京して以来、20年近く東京に住んできました。
最初は東京という土地に多くのプラス面を感じていましたが、時とともにプラスとマイナスのバランスが少しずつ変化し、気づかないうちにマイナスのほうへとバランスが傾いたのです。
実はわたしが人間関係や自然界との関係性の中でいつも心掛けていることがあります。それは「愛の本質は距離」ということです。
多くの場合、人間関係や物事が嫌になるとその対象に目を向けがちになります。相手が悪い、相手がいなくなればいい、相手が変わればすべては解決する、と思ってしまうのです。
しかし、もしその相手が実際に目の前からいなくなったとしても、また別の場面で別の相手と同じような問題に巻き込まれてしまうことがしばしばあります。それなら自分が変われば解決するのではないか、と考えて、自己啓発本を読んでみたり、ポジティブシンキングをしてみようと努力をしたりします。これによって短期的な効果を上げることもあるかもしれませんが、やはり長続きはしないのではないでしょうか。
相手の考えや行動が変わることが難しいのと同様に、自分自身の考えや行動を変えることもまた難しいのです。そうして相手の問題なのか、自分の問題なのか、と心理的な葛藤を繰り返していた時、ふと嫌になった対象との距離が近過ぎることが原因なのではないか、と思うに至りました。
つまり、距離が近過ぎるからこそ「嫌い」になっているだけであり、距離を離していくと、ほどよい塩梅のところで「好き」と感じられる距離感があるはずなのです。
東京を好きになれる距離まで離れる
このように、対象と距離を離してみるだけでも、「嫌い」になったり、「好き」になったりする自分の不思議な感情の変化を観察していても、愛の本質は距離なのだ、という確信を増していきました。
つまり、自分や相手に問題があると考えるよりも、ほどよい距離をとることこそが、お互いのことを好意的に感じられるようになるための方法の一つなのです。わたしはそうした距離感を大切にすることこそが、あらゆる人間関係が複雑に織りなす社会を生きていくうえで、重要なことだと気づきました。
そこで、東京を好きになれる距離まで離れてみようと決心しました。そうした中で、軽井沢を旅行した時に、自然界と人工界との距離感が絶妙で身体が喜んでいることを実感しました。また、軽井沢から雄大な浅間山(標高2568m)が見え、山に見守られているような距離感も気に入りました。直感的にも身体感覚でもこの土地に住みたいと感じているように思いました。
その後、感覚だけで判断すると間違うこともあるだろう、という自分の中での冷静な理性の呼び掛けがあり、直感と理性を対話させることにしました。
まず、わたしたち家族が一番切望していたのは、子供が伸び伸びと自由に成長できる環境でした。つまり、大声で叫びたい時は叫び、走りたいと思ったら走れるような、子供の生命力を自由に発動でき、その能力を最大限に発揮できる場を求めていたのです。
さらに主語を「わたし」ではなく、「わたしたち家族」もしくは「1歳の子供」としてどういう場を求めているのか、再度検証し直してみることにしました。そうして最初のきっかけとなった「東京を好きだ」と感じられる適切な距離を改めて探っていく中で、最終的に軽井沢に移住することを決めました。その決断をした瞬間に直感と理性が仲良く握手したと言えます。
そして、軽井沢に住むのなら地域の健康や幸福に貢献したいと思い、2020年3月11日に軽井沢に移住し、軽井沢病院の職員として地域の健康を守る道を選びました。偶然にもわたしが都市生活に危うさを感じた東日本大震災と同じ日のことでした。