OGPPhoto:Topical Press Agency /gettyimages

1923年9月1日午前11時58分、関東大震災が発生。昼時だったこともあり、台所などから火災が相次いで起こり、その後、46時間もの間、東京を燃やし続ける。震災による死者約10万5000人のうち、何とその9割が「焼死」だった。江戸時代から大火に対峙(たいじ)してきたはずの東京は、なぜ火の海と化したのか? その要因は「気象」にあった。その日の気象について、世界最大級の民間気象情報会社、ウェザーニューズの気象解説員・山口剛央氏に話を聞いた。気象の特徴を知り、有事の際の心構えとしてほしい。(文・構成・撮影/ダイヤモンド社 編集委員 長谷川幸光)

江戸時代からの大火の教訓を活かしていたはずの東京
なぜ関東大震災で火の海と化したのか?

 今から101年前の1923年(大正12年)、関東大震災が発生した。1918年に第一次世界大戦が終結し、1937年に日中戦争が始まるまでの、つかの間の日本の平和は、9月1日午前11時58分に襲ったこの大地震によって崩れ去った。

 神奈川県西部を震源とするマグニチュード7.9の地震と推定され、神奈川県を中心に、千葉県、東京都、山梨県、静岡県、埼玉県と、広い範囲で震度6強〜7を観測。東京での死者があまりに多かったために関東大震災は「東京で起きた地震」という印象が強いかもしれないが、その範囲は1995年に発生した「阪神・淡路大震災」の10倍以上に達するものであり、総計37万棟もの家屋が全壊、半壊、埋没、全焼などの被害を受けるなど、関東圏を中心に未曽有の被害をもたらした。

 驚くべきは、死者(行方不明者含む)約10万5000人のうち、その9割に当たる約9万人が「焼死」であることだ。

 昼食の時間帯と重なったことから多くの火災が発生し、特に東京の本所区(現在の墨田区)横網町(よこあみちょう)などの下町は火の海と化した。被服廠跡地(ひふくしょうあとち)という広い空き地があったが、ここに避難してきた大勢の人が四方を炎に囲まれて逃げ場を失い、住民約4万人が亡くなった。

 地震の揺れで電話や火災報知器のほとんどが破損し、水道が断水したことで消火活動もほとんどできない。家屋から家屋へと火が燃え広がっていく状況を目の当たりにしながらも、人々は対処する手段が何もなかった。一方、震源に近い横浜市の被害も大きかったが、比較的早い段階で延焼を防ぐことに成功している。

 江戸時代、江戸の町は幾度となく大火に襲われてきた。明治維新以降は、東京防火令の公布や、都市計画法・市街地建築物法の施行などもあり、大規模な火災は減少していた。また、当時の警視庁には、最新の消防技術を有する消防部も組織していた。それなのに、なぜこれほどまでに火災の被害は広まってしまったのだろうか?

 理由はその日の「気象」にある。火災にある気象条件が加わり、東京を焼き尽くすことになる2つの現象、「飛び火」と「火災旋風(かさいせんぷう)」を起こしたのである。

 記録によると、出火点は全部で134ヵ所。57ヵ所はすぐに消し止めることができたが、残りの77ヵ所が延焼火災となり、多くの犠牲者を生むことになった。

 出火点から火が隣家へと燃え移っていくのであれば、燃え広がり方はある程度予想でき、避難すべき方向も定まってくる。しかし不思議なことに、出火点から離れた場所で、時間を置いて火災が発生しているのだ。しかもこの現象が多発した。「飛び火」、つまり大量の火の粉が、風によって各地へ運ばれ、屋根の瓦の下に入り込んだり、地震によって瓦が崩れてむき出しになった屋根板や、避難者たちが自宅から運び出した家財などに着火したりして、次々と新たな火災を引き起こしたのだった。

山口氏(株)ウェザーニューズの気象解説員/気象予報士、山口剛央(やまぐち・たけひさ)氏

 また、この日、東京には強い風が吹いていた。つむじ風のようになった風が火を巻き込みながら火柱となり、巨大化。「火災旋風」となって被災地を蹂躙(じゅうりん)した。当時の東京市(※)の実に43.6%が焦土と化した。火災旋風から逃れようと隅田川に飛び込んで命を落とした人も多く、震災から数日後には、下流に多くの水死者が流れ着いたという。
※「東京府」の東部15区(麹町区・神田区・日本橋区・京橋区・芝区・麻布区・赤坂区・四谷区・牛込区・小石川区・本郷区・下谷区・浅草区・本所区・深川区の15区)を区域として1889年に設立された。1943年に東京府と統廃合して「東京都」が発足した

 不運にもこの日に吹いていた強い風は、日本海側に接近していた台風の影響で起こったものだ。当日はどのような気象状況だったのか? 気象予報士であり、世界最大級の民間気象情報会社、ウェザーニューズの気象解説員・山口剛央氏に話を聞いた。