
「天気」を軸に日本の「歴史」を振り返ることで、歴史を気軽に学びながら自然や環境への興味も掻き立てるように構成された書籍『空を見上げて歴史の話をしよう』。この中から今回は、廃れた田舎の漁村だった「江戸」を、世界一の100万人都市にすべく徳川家康が行った「ある工夫」を紹介します。

なぜ家康は水害に悩む
田舎「江戸」を選んだのか?
ミナカタ 徳川家康は、当時、だいぶ田舎だった「江戸」に、なぜやってきたと思う?
ワタル 江戸って、今の東京だよね。東京って田舎だったの……?
ミナカタ 北側は山がそびえ、西側は林に覆われた武蔵野の野原が広がっていたんだ。山からの大きな川と海が交錯する江戸は泥だらけの大湿地帯で、ほとんど未開の地だった。満潮になれば江戸一帯に海水が入り込んできて、水浸しになったという。
ワタル コンクリートだらけの東京が昔は水浸しだったなんて、想像つかないなあ。
ミナカタ 豊臣秀吉が北条家を滅ぼした1590年、秀吉は家康に、北条家の領地だった関東八カ国(※)を与えた。現在でいうと、神奈川、埼玉、東京、栃木、群馬、千葉、茨城に相当する。つまり、関東をまるまるあげたわけだね。
※相模国(神奈川)、武蔵国(埼玉と東京と神奈川の一部)、上野国(群馬県)、下野国(栃木県)、安房国(千葉県南部)、上総国(千葉県中部)、下総国(千葉県北部と茨城県の一部)、常陸国(茨城県)の八カ国
メグル それまでの家康の領地に、関東が加わったってこと?
ミナカタ いや、関東をもらう代わりに、それまで家康の領地だった、駿河国、遠江国、三河国、甲斐国、信濃国をすべて秀吉に差し出す必要があった。家康や家臣たちは、先祖代々暮らしてきた土地を手放さなければいけなくなったんだ。しかも関東は、戦が続いたことで荒れ果ててしまっている。
それに、これまで北条家を慕っていた人たちからすると、心情的に、新参者である家康をよく思っていない人たちもたくさんいたかもしれない。反乱が起こるリスクだってある。
ワタル なぜ秀吉はそのようなことをしたの? 嫌がらせ?
ミナカタ 家康という強大な力を持っている大大名を、自分がいる大坂から離したかった。かつて秀吉の上司だった織田信長は、すぐ近くを本拠地にしていた明智光秀に討たれたからね。
とはいえ、家康の面子も保たなければいけない。そのため、「国替え」してもらう代わりに、今よりも大きな領地を与えることで、バランスを取ったんだ。
ただ、これまでの領地から離れすぎても、家康の家臣たちが不満を募らすかもしれない。また、大坂からあまり遠くにすると、家康の動きを把握することができなくなる。そのため、微妙な位置にある関東に、家康を追いやることにしたんだ。もしうまく統治できなかったり、人々が反乱を起こしたりすれば、その責任を追及して家康の領地を没収し、力を弱めることもできる。
ワタル 秀吉は怖いなあ。
ミナカタ 秀吉としては、ようやくつかみ取った天下だ。それを脅かす芽は、自分が生きているうちにできるだけ摘み取っておきたかったのだろうね。その最大の芽が、家康だったんだ。
当然、家臣の中には反対する人も多かったはずだし、家康自身も複雑な気持ちだっただろう。でも家康は、秀吉の命令に素直に応じた。少しでも怪しい動きをすれば、たちまち滅ぼされてしまうかもしれない。強大な力を持つ家康といえども、時の最大権力者である秀吉に逆らうわけにはいかなかった。
ただ、家康が江戸へやって来た理由はそれだけではなく、何より、江戸という地に魅力を感じていたんだ。
メグル そうなの? これまでの話を聞くと、デメリットしか感じられないけれど……。
ミナカタ 秀吉含め、誰もが、家康が関東で本拠とするのは、当時、関東の中心地だった「小田原」か、かつて鎌倉幕府の本拠だった「鎌倉」だと思っていた。
でも家康が選んだのは、武蔵国の漁村の「江戸」だった。ここには室町時代の1457年、扇おうぎが谷やつ上うえ杉すぎ家けの武将で城造りの名人といわれた太田道灌(おおたどうかん)がつくった江戸城があり、かつては名城といわれた時代もあったけれど、道灌が暗殺されると、この城含め江戸一帯は廃れてしまった。
その後、江戸城は関東を制覇した北条氏の支城(※)の一つとして活用され、家康が本拠に選んだときは、すでに道灌が築城してから100年以上経っていた。名城だった頃の面影はなく、石垣さえない時代遅れの古びた建物に過ぎなかったんだ。
※本城を補助するための城や砦
ワタル なぜ家康はそのようなところをわざわざ選んだの?