
倒産寸前であった広島の家具メーカー・マルニ木工は、世界的なプロダクトデザイナーである深澤直人に新たな椅子のデザインを依頼。出来上がった椅子のネーミングとして深澤が提案したのは「HIROSHIMA」という名前であった。この名から連想されるのは、原爆を落とされた地としての「ヒロシマ」だ。なぜこの名を選んだのか、深澤とマルニ木工の覚悟と信念に迫る。※本稿は、小松成美『奇跡の椅子 AppleがHIROSHIMAに出会った日』(文藝春秋)の一部を抜粋・編集したものです。
この名前は無理だ、と感じた
深澤のネーミング
「いやぁ、いくらなんでもこれはないだろう……」
マルニ木工と深澤直人とのコラボレーションによる第1弾のアームチェア。そのネーミングを深澤に依頼していた。その返答を河村謙一(編集部注:マルニ木工の製造責任者)から報告された時、山中武(編集部注:マルニ木工6代目社長)は思わず、天井を見上げていた。
「2008年の発表を前に、椅子の名前を深澤さんにつけてもらおうとお願いしたんです。僕らも考えたけれど、なかなか良いアイデアが浮かばなかった。すると、河村のところに深澤さんからローマ字で『HIROSHIMA』という名前が送られてきたんです。
HIROSHIMAが良いと思いますがどうでしょうか?という一文を見て、僕は、この名前は無理だ、絶対に嫌だ、と思っていました。深澤さん、マジですか?という気持ちだった。
素晴らしいデザインを職人の卓越した技能で表現し、情熱的なモノづくりに挑戦し完成を見たわけですが、その椅子の名前がHIROSHIMAだというのは、やはり簡単に納得できなかった」
マルニ木工は広島の会社である。しかし、広島で育った人間にはこの地名に複雑な感情がある。
「やっぱり、広島で育った人間はすぐに、カタカナの『ヒロシマ』を思い浮かべます。世界で最初に原爆を落とされた都市としてのヒロシマです。自分の故郷に誇りや愛着はあるけれど、同時に抱えきれないほどの悲壮感もあるわけです。だから、ヒロシマという名前の商品を見た人もきっとその瞬間、『絶望』とか『悲劇』という感情を抱くんじゃないかと考えました。
多分、マルニ木工の人間はみな深澤さんの案を聞いて戸惑ったと思います。だから、僕に名前を持ってきた河村も、無表情でした。あの時の苦しい感覚は今も強く覚えています。
『うわー、おしゃれで最高、ぴったり』みたいな名前を待ち望んでいたので、落胆が大きかったんです」
“希望と再生”の思いを込めた
「HIROSHIMA」という名
武は、電話で話した深澤との会話を記憶していた。
「深澤さんは『広島で作っているんだし、平和への象徴でもありたいと思うし、もう、自信持ってこれにしましょうよ』と言いました。また1番印象的だったのは『1度聞いたら絶対忘れない名前ですよ。忘れてもすぐに思い出せる。もう世界中のみんなが知っている名前だから』ということ。