名付けの心配を一掃した
お披露目後の称賛の声
マルニ木工はこの椅子に社運を懸けていた。山中洋は、武からネーミングを「HIROSHIMAに決めようと思う」と聞いて衝撃を受けていた。
「僕は当初、FUKASAWAがいいんじゃないかと思っていました。深澤さんのデザインとマルニ木工がひとつになった象徴となる椅子ですから、作家の名前がついてもおかしくない。でも武から、『深澤さんはHIROSHIMA以外にはないと思っている』と聞いて、その時には、うーんと唸ってしまいました。
地名や都市からくるネーミングはマルニの伝統的な手法でした。しかし『広島』となると原爆のイメージがどうしても強く出てしまう。暗い印象にお客様が引っ張られないのかと、そんな心配があったんです。
でも、椅子をお披露目した後にそんな心配は一掃されます。この椅子を見た方は、全員が、すごい名前ですね、マルニ木工にしか付けられない名前ですね、と絶賛してくださったんです。
他のデザイナーさんからも『深澤さんの覚悟と信念が込められた名前ですね』と言われて、『ああ、これは唯一無二の名前なんだな』と思うようになりました」
広島の地に生まれた者の
アメリカへの複雑な思い
思えばアメリカという国は、遠くて近い不思議な国だった。
広島で育った少年時代、アメリカは果てしなく遠い場所だった。東京の大学へ進学し、その後にアメリカへ留学したことで、同窓の友人を持つ大切な国となった。英語を学んだことで得た知識も、何度か通った映画の中の世界のようなカジノの楽しさも、自分を豊かにしてくれた。
アメリカから得た恩恵はいくつもあったが、広島に戻るたびに、アメリカを特別だ、大好きだ、と言えない空気があることを感じていた。もちろんそれは、1945年8月6日の原爆投下があるからだった。
悲しみや憎しみなどという語彙では説明できない悲嘆と無念の気持ちが誰の胸にもある。山中洋の父、好文は生まれたばかりだったが、親や親族から聞いた惨状とその許し難い気持ちを事業への情熱に変えて働いてきた、と短く言ったことがあった。
山中洋は、広島の地に生まれた者として、多くの命を失ったことへの哀惜を忘れずに生きていくことを誓っていた。同時に、「我々の世代こそ、新たな日米の架け橋になることができるのではないか」という思いも胸に秘めていたのである。