【軍が強すぎると、国は滅びる】唐の崩壊に学ぶ「残酷な教訓」とは?
「地図を読み解き、歴史を深読みしよう」
人類の歴史は、交易、外交、戦争などの交流を重ねるうちに紡がれてきました。しかし、その移動や交流を、文字だけでイメージするのは困難です。地図を活用すれば、文字や年表だけでは捉えにくい歴史の背景や構造が鮮明に浮かび上がります。
本連載は、政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図や図解を用いて解説するものです。地図で世界史を学び直すことで、経済ニュースや国際情勢の理解が深まり、現代社会を読み解く基礎教養も身につきます。著者は代々木ゼミナールの世界史講師の伊藤敏氏。黒板にフリーハンドで描かれる正確無比な地図に魅了される受験生も多い。近刊『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の著者でもある。

【軍が強すぎると、国は滅びる】唐の崩壊に学ぶ「残酷な教訓」とは?Photo: Adobe Stock

なぜ名君の国が滅んだのか?

 中国では漢王朝(後漢)の衰亡を機に、魏晋(ぎしん)南北朝時代という長い分断の時代を迎えます(220~589)。この時代に終止符を打ち、中国を再統一したのが、隋(ずい)王朝でした(581~618)。聖徳太子が遣隋使を派遣した王朝です。

 その2代君主・煬帝(在位604~618)は、華北(中国北部)と華南(中国南部)をつなぐ大運河の建設や、高句麗など近隣諸国への度重なる外征などで国力を大いに削ぎ、治世の末期には各地で反乱が相次ぎます。これにより、隋は統一からわずか30年ほどで滅亡します。

 この隋末の混乱を収拾したのが、唐(とう)王朝です(618~907)。唐は2代君主・太宗(在位626~649)が、後世に「貞観(じょうがん)の治」と称えられた優れた政策を実行し、国力を充実させます。これにより、太宗と続く高宗(在位649~683)の治世に、積極的な外征で最大領土を実現します。

300年近く続いた唐が滅びた理由

 しかし、辺境防衛のために8世紀から設置された節度使(せつどし)と呼ばれる軍司令官が次第に台頭し、755年に節度使の安禄山(あんろくざん)と史思明(ししめい)を中心に安史の乱が起こると(~763)、節度使は裁判権や徴税権などを吸収して実質的に自立し、「藩鎮(はんちん)」と呼ばれるようになります。

 末期の唐は藩鎮の割拠と抗争にあえぎ、907年に滅亡します。唐が滅亡すると、五代十国時代という分断の時代が再び訪れますが(907~960)、これも宋(そう)王朝(北宋:960~1127)の建国によって再統一がなされます。

(本原稿は『地図で学ぶ 世界史「再入門」』を一部抜粋・編集したものです)