それどころか、推古天皇(編集部注/第33代天皇。在位は593年〜628年。日本史上、最初の女性天皇。第29代欽明天皇の皇女。異母兄である第30代敏達天皇の2人目の皇后。第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟。崇峻が蘇我氏に暗殺されたとき、敏達が最初の皇后・広姫との間になした第一皇子の子=のちの第34代舒明天皇は1歳だった)の時代のものと考えられる文章の中に、「天皇」という言葉が使われている実例があります(『天寿国繡帳』の銘文。622〜628年頃の成立か)。
5世紀末以来、チャイナとの交流を途絶えさせていたわが国も、隋が大陸を統一した以上、外交を再開するしかありません。その際に、チャイナ皇帝を頂点とする国際秩序である「冊封体制」から明確に離脱するという、大きな決断をしました。
そもそも王という皇帝より下位の称号が、わが国でもなぜ使われていたのでしょうか。それは、チャイナ皇帝と周辺国の君主との名義上の君臣関係を軸とした冊封体制に、わが国も組み込まれていたからでした。
しかし、わが国は600年に遣隋使の派遣を始めて以来、隋の皇帝との君臣関係を設定する“冊封”を、一度も受けていません。607年に隋皇帝と同じ「天子」(皇帝だけが名乗ることができる別号)を名乗る国書を送って不快がられると、翌年には相手を「皇帝」、自らを「天皇」と区別する国書を届けました。
相手に一定の配慮をしつつ、しかし下位の従属的な称号である「王」は二度と名乗らない、という意思表示です。
天皇号の成立は、この608年だった可能性が最も高いでしょう。
「女性天皇=中継ぎ」ではない!
推古天皇が持っていた圧倒的権威
「天皇」は、中華皇帝に服属しない独立自尊の立場を明らかにした、日本独自の君主号でした。それは冊封体制から脱却し、チャイナ文明圏から政治的自立の道の歩みを始めた、わが国の姿勢を示すものです。