沖縄平和祈念公園、平和の礎の碑Photo:PIXTA

太平洋戦争中、日本本土内で唯一民間人も巻き込んだ戦闘が行われ、大きな傷跡を残した沖縄。戦争遂行の大義名分となった皇室への沖縄県民の遺恨は深く、当時の皇太子同妃両殿下(現在の上皇陛下と上皇后陛下)も心を深く痛めていた。自身に火炎瓶が投げつけられるという予想外の事態に見舞われながらも、再度沖縄に足を運んだ皇太子。そこで沖縄県民の心を掴んだある一言とは?※本稿は、井上亮『比翼の象徴 明仁・美智子伝 中巻 大衆の天皇制』(岩波書店)の一部を抜粋・編集したものです。

戦後30年を経ても傷跡は深く……
皇太子夫妻が見た沖縄の現実

 1月17日、皇太子夫妻は海洋博閉会式に出席するため再び沖縄を訪れた。まず海洋博会場の対岸にある伊江島に入った。当時の伊江島は人口6300人。周囲22キロの島で、37%が米軍用地で占められていた。1945(昭和20)年4月16日、米軍3万人が上陸、1平方メートルに1発の砲弾が撃ち込まれた。戦闘で日本軍1700人、米軍1100人が死亡した。そして約5000人の島民のうち1700人が犠牲になった。残った島民は47(同22)年3月まで島外に強制移住させられた。

 夫妻は戦争犠牲者を祀る「芳魂の塔」に献花し、深く拝礼した。その後、沖縄八景の1つといわれる城山展望台に上って海洋博会場や本部半島の眺望を見学した。明仁皇太子から戦争当時のことを聞かれた知念彦吉伊江村長が「草1本もはえぬほど焼かれました」と答えると、皇太子は深くうなずいた。皇太子は「米軍の射爆場はどの方向ですか」と米軍施設の現状にも関心を示した。同島で夫妻はサトウキビを収穫中の農家にも立ち寄り、フェリーで海洋博会場へ移動した。宿泊先のホテルでは豆記者たちが出迎え、沖縄民謡を合唱した。

 前回の火炎瓶事件に懲りた警察は空前の警備体制を敷いた。動員された警察官は計3500人で、那覇に1000人、海洋博会場周辺に1000人、伊江島に1500人。同島では島民4人に1人の警官がいたことになる。これには過剰警備の批判が出た。皇太子訪沖反対の運動は前回より下火になっていた。

 当時、共同通信の皇室担当記者だった高橋紘は「皇太子の異例の談話発表、火炎瓶事件の反省、真摯な皇太子夫妻の態度に触れた県民の反応―これらがさまざまな形で交錯し、運動がダウンしたのかもしれない。当日のデモは、那覇市内で3件210人、海洋博会場周辺で3件400人あっただけだった」と書いている。

広がゆる 畑立ちゆる城山 肝のしのばらぬ 戦世の事
〈城山から見る風景は畑が広がり平穏そのものだが、戦争のことを思うと心が張り裂ける思いがする〉