でも、その通説なるものが本当に信用できるのか、僭越ながら私は疑問を抱いています。
なので、その点も含めて、少し丁寧に説明するつもりです。
前近代の東アジア世界で、君主の称号は各国の君主のランクを示す機能を果たしていました。もともとは「王」という称号が、君主号として普通に使われていました。
ところが、チャイナの春秋戦国時代を終わらせて国内統一を果たした秦の君主が「王」よりもランクが高い「皇帝」を初めて名乗りました(紀元前221年、『史記』秦始皇本紀)。いわゆる秦の始皇帝ですね。
これ以来、「皇帝」が最高君主の称号になり、「王」はそれより下位の称号になります。それは、しばしば皇帝に従属する地位を示しました。
天皇号は日本より中国が先?
かぎを握る木簡と唐の皇帝
朝鮮半島の国々の君主は、前近代においてずっと「王」を名乗り続け、中華帝国に名義上は臣従する立場を続けました。わが国でも、しばらくは「王」という称号を使っていました。福岡県・志賀島から出土した1世紀半ば(57年)の金印に彫られていた称号は、「漢委奴国王」つまり王でした。
『魏志倭人伝』(正確には『三国志』魏書・烏丸鮮卑東夷伝・倭人条)に名前が出てくる「邪馬台国」の「卑弥呼」は、2世紀末から3世紀前半に活躍したと考えられます。その称号は「倭王(親魏倭王)」です。5世紀のいわゆる「倭の五王」も、もちろんその呼び名の通り「王」でした。
五王の最後、倭王・武は雄略天皇(編集部注/第21代天皇。各地の有力豪族を武力討伐し、天皇家による専制を確立した)と考えられています。埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文(471年)には、「獲加多支鹵大王」という名前が確認できます。「大王」というのは、「王」に対して服属した豪族が敬って使った尊称でした。ですから、正式な称号としてはやはり王だったことが確認できます。
では、わが国の君主が中華帝国の皇帝よりも下位の王号から脱却して、より上位の「天皇」へと飛躍したのは、いつからでしょうか。