皇居前広場の風景Photo:PIXTA

時は1965年。日本は高度経済成長期の真っ盛りにあり、1959年に結婚した皇太子夫妻も子宝に恵まれ幸せの絶頂にいた。しかし、旧華族出身者ではない美智子さまに対する風当たりもまた強かった。週刊誌上で加熱する皇室論争。そこで当時、皇太子であった明仁上皇陛下がとった前代未聞の一手とは?※本稿は、井上亮『比翼の象徴 明仁・美智子伝 中巻 大衆の天皇制』(岩波書店)の一部を抜粋・編集したものです。

戦後20年、戦後から立ち直った
日本から薄れゆく戦争の記憶

 1965(昭和40)年は戦後20年であった。戦後の新生日本とともに成長し、成人を迎えた青年男女は全国で188万人。1月15日の「成人の日」、上野の東京文化会館で全国の青年代表約2600人を集めた戦後初の成人の日の式典「青年のつどい」が開かれ、皇太子夫妻が出席した。明仁皇太子は「この機に当り、皆さん方は先達の足跡に目を向け、言葉に耳を傾け、自己を失わない建設的批判精神を養うことが大事ではないでしょうか」とあいさつした。

 この日、「紀元節の町」を標榜する奈良県橿原市の成人式では、元陸軍少佐の“国粋派”市長が「教育勅語」のパンフレットを配布した。市長が「教育勅語を聞いたことがある人」と聞くと、手をあげたのは800人の出席者中3人だった。ある女子大生は「この内容は当然しなければならぬことばかりです。その当たり前のことをいうのに、なぜ勅語をもち出すのでしょう」と話した。戦前は遠くなっていた。

 3月25日、学習院幼稚園の園児80人がバス2台に乗って東宮御所にやってきた。皇太子夫妻の発案で実現した園外保育で、かつて明仁皇太子が幼少のころに学友を招いたことにならったものだった。気軽に友だちの家に遊びに行ったり、招いたりできない浩宮の境遇を慮ったものだろう。浩宮は大はしゃぎで級友らとイスとりやボールゲームなどを楽しんだ。

 31日、東宮侍従長の山田康彦が書陵部長に異動し、後任に侍従の戸田康英が就任した。天皇の侍従長も三谷隆信から稲田周一に引き継がれた。同時に義宮の傅育官だった侍従職参事の村井長正が宮内庁を去った。明仁皇太子の学友・橋本明によると、村井は事実無根の「聖書事件」の遠因は自分にあると責任を感じ、辞表を出していたという。また、山田東宮侍従長は病気のため任に耐えないというのが異動理由だったが、橋本は「美智子妃に対する山田の諫言」が転任理由だったと著書に書いている。

 美智子妃は母・富美子から手紙が来るたびに、返事を書き送っていた。