これ以降、冊封関係を続けた朝鮮半島が時間の経過とともにチャイナ文明への傾斜を深めたのに対して、わが国は逆に独自性を強めていきます。天皇号の成立は現代につながる歴史の大きな分岐点だったと言っても、言いすぎではないでしょう。

日本の初代天皇は「神武天皇」じゃなかった!?意外過ぎる真実とは【皇室研究の専門家が問題提起】『愛子さま 女性天皇への道』(高森明勅、講談社)

 その大きな決断を下した時代の君主は、最初の女性天皇とされる推古天皇でした。

 当時、譲位という慣行はまだないので、中継ぎとして即位するということはありえません。ワンポイント・リリーフとして“本命”の出番までつないで交代、ということができないからです(編集部注/伝統的な皇位継承ルールとして、歴代の女性天皇は、特定の男子皇族に皇位をつなげるため、若年のその皇子が長じたら譲位することを前提に、「中継ぎ」として皇位に就いていたという学説がある。筆者はこれに批判を加えている)。

 それどころか、推古天皇はまだ君主として即位される前から、絶大な権威を備えておられました。たとえば推古天皇の弟にあたる崇峻天皇が即位される前、君主の地位を狙った有力な皇族(穴穂部皇子)が誅殺されています。これは敏達天皇の皇后だった推古天皇の「詔」(本来の意味では君主の公式な意思表示)によるとされています。

 推古天皇は崇峻天皇の後に即位されるので、まだ君主ではありません。それでも緊急事態に際して、果断な処置を命じる「詔」(に匹敵するもの)を下すだけの権威を、すでに身につけておられたことが分かります。崇峻天皇の即位自体も推古天皇が促したものでした。

 さらに、朝廷内で危険視されるようになっていた崇峻天皇が暗殺されたのも、少なくとも事前に推古天皇の同意を得ていたと考えられます。

 こうして、推古天皇の満を持しての即位は、中継ぎどころか、朝廷に集まる多くの人々の強い期待によるものだった、と見ることができます。

 推古天皇の時代は、皇族を代表する聖徳太子と豪族を代表する蘇我馬子の支えによって、政治の改革や文化の進展にめざましい成果を残しました。