奈良県明日香村の飛鳥池工房遺跡から出土した木簡から、「天皇」という表記が確認されました。この木簡は677年(天武6年)前後のものと見られています。
ですから、天武天皇の時代には「天皇」号はすでに成立していたと考えられます。近年では天皇号は天武天皇朝に成立したとする学説が有力になっています。
それは、こんな考え方です。チャイナ唐の皇帝・高宗が、674年に初めて「天皇」を名乗った事実に注目します。日本で君主が天皇を名乗るようになったのは、高宗にならってのことだろう。だから、それより“前”にわが国で天皇号が使われていたはずがない…というのです。
あるいは、わが国が先に天皇を名乗っていたら、誇り高いチャイナ皇帝の高宗がそれより遅れて同じ称号を名乗るなんてありえない、という考え方です(渡辺茂氏『史流』8号、所収論文)。
果たしてそうでしょうか。
608年、“王”から“天皇”へ
日本が中国に突きつけた意志
残念ながら、唐の高宗が天皇を名乗るよりも前にわが国に天皇号はなかったはずだ、という通説を支える思い込みには根拠がありません。なぜそう言えるのか。ふたつ理由があります。
ひとつは、高宗が名乗った「天皇」は正式な君主の称号ではなかったからです。唐の正式な君主号はそれまで通り「皇帝」のままでした。天皇は「あくまでも高宗個人の尊号」でしかなかったのです(坂上康俊氏『日中文化交流双書(2)法律制度』所収論文)。そのようなものを、王に代わる新しい君主号として採用するとは、考えにくいでしょう。
次に、高宗が天皇を名乗った時に、皇后の則天武后は「天后」を名乗っていました。
しかし則天武后が天后を名乗るよりも前に、周辺国の吐谷渾で同じ天后を名乗っていました(『隋書』西域伝・吐谷渾条)。でも、まったく気にしていません。自ら公認していない他国の称号は、存在していないのと同じ…という感覚だったのでしょう。
わが国の天皇号についても、同様の事情だったと考えられます。したがって、674年より後と見なければならない根拠はなくなります。