これはね、なんともいえない寂しさがあるんですよ。経験しないとわからないと思います。親しい同級生はみんないなくなりました。私は関西の出身ですから、東京に来てからは女学校時代の友人とはつきあいがあまりないんです。東京にいる同級生はほとんどいなくなりました。
肩書には「百嫗」
言葉に込めた想い
リベラル社から出ている私の本の帯は「もうすぐ一〇〇歳」とか「祝一〇〇歳」と変えてるんですね。99歳と100歳では全然違う。体力も衰えるし、頭ももうすっかり悪くなりました。記憶力がなくなった。これは大きいですね。
つまり、どんどんボケていってるんですよ。日常の細かいことがありますでしょ。眼鏡をどこに置いたかとか、今日は手伝いの人は来るのかとかすぐ忘れます。このインタビューのように、誰か人が来て話をしていると頭が活性化するんですよ。人と喋るのは好きですね。
「100歳になって、周囲の人たちは放っておかないでしょう」と言われることもありますが、もうそろそろ忘れられていますよ。
リベラル社の本では、肩書に「百嫗(ひゃくおうな)」という言葉を使いました。
『新装版 女の背ぼね』が最初かしら。その後、『新装版 そもそもこの世を生きるとは』と『増補新装版 老い力』の3冊のまえがきに使いましたね。
ただ100歳になったということだけど、「嫗」(年老いた女性の意)という漢字を使って「百嫗」とすると、感じが強まりますでしょ。文字面に迫力があります。やっぱり大正生まれの人間となるとそういうことになりますね。
この肩書を使うことはそうありませんよ。100年生きた人へ与えられる特権ですかね。
話題作『九十歳。何がめでたい』
執筆を後押しした人物とは
これまで、何度も断筆宣言をしてきました。そのときはもうダメだ、もう書けないと思うんですよ。でも、結局書きたくなってしまう。衝動なんですよ。無責任に書いていますから。
『九十歳。何がめでたい』は、『女性セブン』の連載ですね。書いたのは何年も前のことだから、覚えていません。
断筆宣言をしたのに、小学館の編集者の橘高真也さんが断っても断ってもやってきて。断筆したっていくら言っても、本気にしないんですよ。もう書けないって言っても、のらりくらりとかわされる。のんびりしてそうに見えて頑固なんです。橘高さんにつられて書いちゃったみたいなところがあったと思いますね。