貿易を止めたら海賊が増えた…明の“海禁令”が招いた皮肉な結末とは?
「地図を読み解き、歴史を深読みしよう」
人類の歴史は、交易、外交、戦争などの交流を重ねるうちに紡がれてきました。しかし、その移動や交流を、文字だけでイメージするのは困難です。地図を活用すれば、文字や年表だけでは捉えにくい歴史の背景や構造が鮮明に浮かび上がります。
本連載は、政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図や図解を用いて解説するものです。地図で世界史を学び直すことで、経済ニュースや国際情勢の理解が深まり、現代社会を読み解く基礎教養も身につきます。著者は代々木ゼミナールの世界史講師の伊藤敏氏。黒板にフリーハンドで描かれる正確無比な地図に魅了される受験生も多い。近刊『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の著者でもある。

貿易を止めたら海賊が増えた…明の“海禁令”が招いた皮肉な結末Photo: Adobe Stock

「貿易を止めたら海賊が増えた」メカニズム

 建国初期の明では、元の時代にあったユーラシア規模の銀流通ネットワークが使えず、銀の供給が困難になりました。

 そこで初代皇帝・洪武帝は、銀の国外流出を防ぐために「海禁(かいきん)」と呼ばれる貿易制限を実施し、朝貢貿易を除く民間の海外貿易を禁じました。

 そのため明前期の海外貿易は低調でしたが、第3代・永楽帝の時代になると、大艦隊による南海諸国遠征が行われ、朝貢貿易を拡大。多くの国々が明との貿易を求めて来朝し、マラッカ王国のように明の後ろ盾を得て国際的地位を高めた例も見られました。

 朝貢貿易が活発となった一方で、海禁が継続された状態に変わりはなく、海外貿易に従事できない沿岸商人は、15世紀後半より各地を襲撃する海賊となります。

 この海賊は「倭寇(後期倭寇)」と呼ばれましたが、このときは名前とは裏腹に中国人が主体だったのです。また、同時期には北方よりモンゴル帝国の後継政権など北方民族の侵攻も激化しますが、これもまた、明との交易を要求してのものでした。この時期の外敵による明への圧迫は「北虜南倭」と総称されますが、時期だけでなく商業活動を求めたという目的も共通していたのです。

 1556年、明はついに海禁を緩和します。これと前後して、大航海時代(大交易時代)を迎えたヨーロッパ船が、こぞって中国に到達します。

 16世紀はポルトガル、続いてスペインが来航し、ポルトガル船は日本から大量の日本銀を、スペインはフィリピンを経由して新大陸の墨銀(メキシコ銀)を、それぞれ中国にもたらします。下図(図32)を見てください。

貿易を止めたら海賊が増えた…明の“海禁令”が招いた皮肉な結末出典:『地図で学ぶ 世界史「再入門」』

 この結果、明での銀不足は解消され、銀による貨幣地代の制度も整備されます。

(本原稿は『地図で学ぶ 世界史「再入門」』を一部抜粋・編集したものです)