「文化の背骨しっかりすること怠った」
戦後に吐露した「反省」や後悔の念
小泉自身も戦後、「反省」と題した文を書いたり、後悔の念を語ったりしている。
明治の興隆は、士族の道徳的背骨と西洋の科学と個人主義によってもたらされたが、その後、背骨をしっかりさせることを怠ったとして、「日本在来の教えはゆるがせにされて、西洋文化もしっかりと本質的にはつかむことを怠った。これが日本人の犯した過ちではなかっただろうか」と書いている。
「なぜあの戦争が起きたのだろうか。言論の自由がなかったからか。では、言論の自由を守るのは誰か。我々自身ではないのか。孔子は『義を見てせざるは勇なきなり』と述べたが、これこそがまさに『不勇』の一例ではないだろうか」
「戦時中強硬に、堂々と戦争に反対した人々に感心している」「この戦争を防ぐ力のなかったこと、開戦の後の戦い方の誤っていた事など、指導者階級の1人として自分の責め帰すべきものが多いことを感ずる」と述べた記録がある。
慶應義塾大学法学部教授の小川原正道は、著書『小泉信三――天皇の師として、自由主義者として』で、「祖国愛という点で、小泉はおそらく人後に落ちない自負はあったに違いない。問題はその『愛』し方であった。破滅的な戦争に抵抗することで祖国を救うという『愛』を、実践すべきではなかったか」と指摘。そのための道徳的背骨を持っていなかったために反省せざるをえず、それが昭和天皇への進講、皇太子教育に少なからぬ影響を与えただろうとみている。
1944年、日吉キャンパスに連合艦隊司令部など海軍の機関が移転してきた。学徒出陣で学生が少なく、三田キャンパスでも無人の施設を企業に貸し出していた。施設が軍に徴用される時代でもあり、抵抗したような記録はない。
東急電鉄から提供を受けて、「理想的学園を建設する」と意気込んだキャンパスだが、軍人が闊歩し、短期間で掘られた長大な地下壕は今も残る。敗戦後は米軍に接収された。訓練学校や兵舎が置かれ、返還されるまでに4年かかった。
これも小泉の「祖国愛」で海軍に校舎を提供した代償となったと言えないだろうか。
(文筆家、元朝日新聞記者 長谷川 智)