
「学の独立」が空洞化した早稲田
学徒出陣控えた「最後の早慶戦」
東京六大学野球連盟が1925年に発足して、今年で100年目の節目を迎える。折しも、治安維持法が制定され、六大学にも言論封殺の影が漂い始めた頃だ。当時の世相は、世界各地で戦争が勃発し、学問の場で言論封殺が起きている現代に通じるものがある。
再び世界や日本が誤った方向に進まないためにも、当時の世相を改めて検証することは重要だ。戦前・戦中の激動の時代を、東京六大学はどう「学問の自由」を守り抜いてきたのだろうか。
43年10月16日、学徒出陣を控えた早稲田大学と慶應義塾大学の野球部の壮行試合が、早稲田の戸塚球場で行われた。25年9月、東京六大学野球連盟の最初の試合が行われてから19年目だった。
壮行試合開催までの模様を描いた映画『ラストゲーム最後の早慶戦』(2008年公開、神山征二郎監督)に、次のような場面がある。
場所は早稲田の総長室。総長は藤田まことが演じる田中穂積。対面していたのは、「学生野球の父」と呼ばれる野球部顧問で柄本明演じる飛田穂洲だ。飛田が早慶戦開催の許可を田中に迫る。
「早稲田が官憲の目の敵にされて多くの学者が教壇に立てなくなっていることも知っています。しかし彼らは節を曲げてはおりません。それが教育者の正しい姿だと思います」
軍部が台頭、大学も軍事体制の中にあった。
試合は慶應側の提案だった。野球部が塾長の小泉信三に申し出たところ、「出陣する学生のはなむけには早慶戦がふさわしい」と快諾した。神宮球場を使うには文部省を通す必要があったが、自分が交渉してもいいとまで言った。
しかし早稲田の学内調整が進まない。映画の場面は、田中が「文部省や軍の神経を逆なでする」と首を縦に振らないことに、業を煮やした飛田が激しく迫ったときのものだ。
在野の反骨精神に満ちた早稲田は創立以来、政府や軍部ににらまれやすい大学だった。映画では、飛田は開催を求める慶應野球部の部長らに、「津田左右吉や大山郁夫といった歴史学者や政治学者の研究室が官憲に急襲されている。大学の存亡に関わっている」と、壮行試合を躊躇する田中総長の胸の内を説明する場面もある。
最終的に早稲田の大学当局は試合に関知せず、野球部の責任で開くことになった。小泉は学生席で応援したが、田中の姿はなかった。試合は10-1で早稲田の勝利に終わった。エールの交換をした後、誰からともなく『海行かば』が歌われた。