今年は東京六大学野球連盟が1925年に発足して100年目の節目の年だ。大正デモクラシーの時代でその年には普通選挙法が成立したが、大衆運動を弾圧する手段になった治安維持法も公布された。この年から敗戦までの20年は日本が戦争に突き進む時代だった。大学は「学問の自由」や「自治」が侵され日本の言論空間が縮小していった時期とも軌を一にする。戦争は突然、起こるものではない。国粋主義や軍国主義の台頭とともに「異論封殺」のターゲットになったのが大学だった。現代に目を転じれば、日本学術会議に対する特定機密保護法などに異論を唱えた委員の登用拒否に続いて、学術会議の活動の自律性や独自性が懸念される法人化法案が衆院で可決され、米国ではトランプ政権がイスラエルのガザ攻撃反対デモの中心になったハーバード大などに反ユダヤ主義放置、左翼勢力のレッテルを張り補助金打ち切りなどで“教育改革”を求めている。再び世界や日本が誤った方向に進まないためにも、当時の世相を改めて検証することは重要だ。東京六大学を通してそれを見ていこう。
戦争と東京六大学~異論はどう封殺されたか
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