小泉がなぜこれほどまで変わったのか。学内にもいぶかしがる声はあったようだ。
当時のゼミ生は「戦局の窮迫につれて(小泉)先生の態度は次第に硬化し、あまりにも積極的な言動はしばしば教授たちの反発を招くに至った。私自身、先生に敗戦の場合をも考えるのが学者の義務ではないかと質問したところ、敗戦主義者と一喝されて口をとがらせたことを覚えている。空襲下に勤労動員として学生や教授を遠く名古屋や北海道にまで派遣し、関係者や家族を嘆かせたことも人情味豊かな晩年の先生からは想像しにくいことである」と述懐している。
戦後1992年の白井厚教授ゼミナール調査でも、「塾長の右翼的言動、行き過ぎには失望した」「時局に迎合した言動をする者を、軍人以上に嫌悪していたので、小泉は最も忌むべき人間だと思った」という声も寄せられている。
一方で同じ調査では、「塾長のリーダーシップで教員にも学生にも秩序の乱れはなかった」という声も多く、戦時中も強い指導力を保っていたことは事実だ。しかし、好戦的な言動への変化は多くが驚きを感じていた。いくつかの要因が指摘されている。
軍部に根強かった福澤諭吉批判
師の「祖国愛」で体制に順応
その一つは、慶應の学者に対する大きな言論弾圧はなかったとはいえ、戦時下で、福澤諭吉批判、慶應批判は小さくなかったことだ。
陸軍エリートコースである予科士官学校の教科書は、「西洋思想の流入」という見出しで福澤批判を展開している。『学問のすゝめ』は、「我が国本来の精神と全く相反し、冒頭の『天は人の上に人を造らず』は、英国自由平等思想の移植で、政府は国民の代表に他ならず、天皇親政の本義は没却され、君臣の関係も便宜的、功利的なる意味を与えられるに過ぎず」と攻撃している。