入隊した慶應出身者は冷遇されたという逸話も多く残っている。ジャーナリストで同志社出身の徳富蘇峰は「福澤の思想には道徳論が欠如している。知識青年の間に道徳的な空洞が広がり、国を愛さなくなっている。知識偏重の偏知主義の傾向がある。西洋道徳、特にキリスト教を学ぶ必要がある」と批判した。
こうしたこともあって、小泉は軍部や世論の圧力から慶應義塾を守ることを強く意識し始める。
そのため、福澤の国権論者の一面を強調するようになった。福澤は国内的には民権論者だが、対外的には脱亜入欧論で知られ、日清戦争の頃には「国の独立を守るためには、文明を進歩させ、軍備を増強しなければならない」と国家としての独立と存続を強く訴えていた。
時局と矛盾しない主張を創立者の著書に求め、祖国愛を強く前面に押し出すことで、慶應を守る根拠としたわけだ。こうした姿勢は早稲田総長の田中穂積とも共通するものだ。
自由民権運動の高まりの中で、薩長藩閥の明治政府は、対抗策として帝国大学を創設し、成績優秀者を官僚に動員するシステムを人為的につくっていく。最終的に帝大を頂点とする「富士山型」に収れんした。官学は藩閥政府が生んだ官権の象徴であり、慶應や早稲田はそれに対抗する勢力だった。戦時下、明治政府以来の富国強兵路線、国家主義が強まる中で、小泉も現実に合わせていくことを余儀なくされたのだ。
長男の戦死も大きく影響
人知れぬ「塾長」の胸の内
長男の戦死も大きく影響したようだ。経済学部を卒業し、海軍経理学校を経て、民間船を徴用した特設砲艦の主計長となったが、42年10月、南太平洋方面で戦死した。葬儀には山本五十六からも悔やみ状が届いたが、小泉には衝撃となった。
好戦的な言動は終戦まで続いたが、白井は「軍部の圧力から慶應義塾を守らねばならない塾長の立場、祖国が開戦した以上は勝たねばならないという妥協を嫌う性格、子息の戦死に対する思いなど様々な面を考えなければならないだろう」と指摘する。