
早稲田最大の言論弾圧、津田教授事件
そのとき田中総長はどう動いたか
東京六大学野球連盟が1925年に発足して、今年で100年。折しも、治安維持法が制定され、六大学にも言論封殺の影が漂い始めた頃だ。
前回は、1943年に学徒出陣を控えた早稲田大学と慶應義塾大学の野球部の壮行試合、いわゆる「最後の早慶戦」が行われた裏で、試合の実現に向けた土壇場の駆け引きがあったことをお伝えした。開催に最後まで難色を示したのは、早稲田の田中穂積総長だった。
当時の早稲田は、数々の言論弾圧に見舞われていた。軍部に睨まれた早稲田を存続させるために難しい舵取りを行った田中総長は、どのような選択を迫られていたのだろうか。
早稲田最大の弾圧事件は、1939年に起きた津田左右吉出版法違反事件だ。39年12月、津田左右吉早稲田大学文学部教授の東京・本郷の東京帝国大学の講義は異常な空気に包まれた。
「先生は日本と中国を包含する東洋文化は存在しないと主張している。東亜新秩序を目指して遂行している聖戦を否定しているのではないか」
普段の聴講生の中に混じった集団が何回も同じ質問を繰り返し、だんだん詰問調になっていく。津田は動ずることなく答えていたが、たまらず両者の間に割って入ったのが、当時、東京帝大法学部助手だった丸山真男だった。
丸山は礼を欠いた聴講者を叱責し、津田を講師控室に連れ出した。集団は控室にも押し寄せ、数時間も激しい議論が続いた。丸山は津田を近くの洋食屋に避難させたが、津田は「ああいう連中がはびこると日本の皇室は危ないですね」とつぶやいたという。