会場を埋め尽くす人の波。写真は、いまから55年前に「人類の進歩と調和」というスローガンの下で開催された日本万国博覧会(大阪万博)の様子である。その中心に鎮座して鮮烈な存在感を放っているのは、岡本太郎が手がけた「太陽の塔」だ。
過去・現在・未来を象徴する3つの顔を有しており、なかでも塔の頂にある「黄金の顔」は、未来を表しているといわれる。そのうえでこの塔を、輝く未来を語る万博のシンボルタワーと思っていたならば大きな誤解である。なぜなら実体は、技術と産業の発展を盲進した無邪気な未来志向へのアンチテーゼだからだ。その意味では、世界の万博史に刻まれた唯一無二の異物でもある。
では、岡本が塔の根源に据えたものは何か。それは「人間」そのものである。内部に設置された巨大オブジェ「生命の樹」は人間生命の尊厳とエネルギーを象徴し、太陽の塔と一体不可分な存在として構想された。そこに込められた「人間の力に目を向けよ」という岡本のメッセージは、時代を超えても色褪せることなく、強いパワーを放ち続けている。
今年(2025年)は、戦後80年であると同時に「昭和100年」に当たる。昭和の終わりにはジャパン・アズ・ナンバーワンと評されて我が世の春を迎えた日本は、その後、平成から令和へと長きにわたる低迷の歴史を歩むことになった。「失われた30年」を経たいま、残念ながらその後遺症からまだ抜け出せていない。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という格言がある。ドイツ帝国の初代宰相ビスマルクの言葉だ。愚者はみずからの経験で初めて失敗に気づく一方、賢者は先人たちの経験、つまり歴史を学ぶことで同じ失敗を繰り返さないという意味である。
ならば昭和100年という節目を、長い時間軸で物事をとらえ、「賢者は歴史に学ぶ」契機とできないか。そこで弊誌はその答えを、日本経営史研究の第一人者に求めた。大阪大学名誉教授の宮本又郎氏、国際大学学長の橘川武郎氏である。大屋根を突き破った太陽の塔のように閉塞感を打破し、次の100年に向けてアップデートするためには何が必要なのか。歴史に刻まれた日本企業の忘れ物を探る特別企画としてお届けする。
1920 to1929
体感としての「慢性不況」の時代
編集部(以下青文字):昭和が幕を開けた1926年頃、関東大震災(1923年)の爪痕がまだ色濃く残り、大正後期の不況が深まる中にありました。第1次世界大戦の好景気に急成長した企業の多くは勢いを失い、零細企業の倒産が相次ぐ一方、大企業同士の合併や合同が進んでいきました。一方、イノベーションと企業競争が活発になるなど、次の時代の萌芽となる動きもあり、この1920年代を、のちに「プレ高度成長期」と位置付ける見方もあります。
宮本(以下略):この時期は、関東大震災や金融恐慌、昭和恐慌、そして1929年の世界恐慌といった出来事が相次いだことから、「慢性不況の時代」といわれてきました。ただ、この10年間を一貫した不況期と見なすことには慎重な見方もあります。

大阪大学 名誉教授
宮本又郎 MATAO MIYAMOTO 大阪大学名誉教授。大阪商工会議所大阪企業家ミュージアム館長。元経営史学会会長。企業家研究フォーラム元会長。専門は、日本経済史・経営史。主な著作に、『近世日本の市場経済』(有斐閣、1989年)、『日本経営史』(共著、有斐閣、1995年)、『日本の近代11 企業家たちの挑戦』(中央公論新社、1999年)、『新版 日本経済史』(共著、放送大学振興会、2008年)、『講座・日本経営史1 経営史・江戸の経験』(共編著、ミネルヴァ書房、2008年)、『日本の企業家1 渋沢栄一』『日本の企業家12 江崎利一』(PHP研究所、2016年、2018年)など多数。
たしかに、名目GDPの成長率は低下傾向にありましたが、同時に物価も下がっていたため、実質GDPで見ると緩やかですが成長は続いていたことがわかります。むしろ国際的に見れば、比較的高い成長率を維持していたという評価もあります。ただ、次々に大きな災害や経済危機が起こったことで、当時の人々にとっては、景気がよくなっているという実感を持ちにくかったのではないでしょうか。現在の「失われた30年」にも通じる、体感としての不況感が漂っていたのだと思います。
さまざまな産業で構造転換が起きたのもこの時期ですね。
特に電力事業の発展は象徴的でした。明治期には都市部での火力発電が中心でしたが、明治末期から長距離送電技術が進み、山岳地帯での水力発電の開発が加速します。信濃川や黒部川水系を中心に発電所が建設され、1930年には発電量が15年前の約7倍に達しました。
安定した電力供給と電気料金の低下は、レーヨンや電気精錬、肥料の原料となる硫酸アンモニウムといった電力を多く消費する産業を育てる土壌となりました。肥料業界では日本窒素肥料(現チッソ)や昭和肥料(現レゾナック・ホールディングス)といった新興企業が相次いで設立され、のちに財閥系企業も参入し、日本は世界有数の窒素生産国となりました。また、松下幸之助は1918年に松下電気器具製作所(現パナソニックホールディングス)を創業し、電気の時代の到来を見越して、電気器具の製造に乗り出しました。
さらに、都市化の進行とともに、官民の投資が活発になり、道路、下水道、電鉄、住宅建設といったインフラが整備されます。これに伴い都市型の生活文化と消費市場が形成され、第3次産業での雇用が増加します。「新中間層」と呼ばれる人々が登場し、百貨店、広告、耐久消費財、洋風食品といった新しい産業が成長しました。阪急電鉄(現阪急阪神ホールディングス)の小林一三が手がけた郊外住宅、鉄道、娯楽施設、百貨店を一体で展開する沿線開発モデルは、現在まで続く都市ビジネスの先駆けです。
また、第1次世界大戦の影響で輸入が途絶えたことから、国内での生産を目指す「輸入代替型産業」が成長しました。電気機械や繊維機械、製薬といった分野で国産化が進み、日本電気(NEC)や富士電機といった企業が、欧米企業との技術提携を通じて設立されました。豊田佐吉のG型自動織機も国際的に高い評価を受け、その売却益をもとに、息子・喜一郎が自動車事業に進出します。これがトヨタ自動車の起源となりました。この時期は海外からの技術導入や提携も多いですが、国産技術の開発も活発で、数々のイノベーションが起きた時代ともいえます。
企業経営にはどんな変化が起きたのでしょうか。
第1次世界大戦後、三井・三菱・住友など既成財閥の多角化と成長が進む一方、野口遵(したがう)の日窒コンツェルン、鮎川義介の日産コンツェルンなどの新興財閥が台頭し、重化学工業を中心に傘下企業の連携や技術導入を進めていきました。こうした企業は資金調達を株式市場や銀行に依存し、既成財閥とは異なる経営体制を築きました。
同時に、企業経営の担い手も変わっていきます。それまでは株主やオーナーが経営の中心でしたが、技術革新の進展により、企業経営にはより高度な専門知識と判断力が求められるようになりました。こうした流れの中で登場したのが、専門経営者という新しい経営の担い手です。実際、1930年には大企業158社のうち42社で、非オーナー型の経営者が過半数を占めるようになっていました。
経済評論家・高橋亀吉はこの変化をとらえ、著書『株式會社亡國論』の中で、短期的な配当を求めて企業の将来投資を妨げる株主の姿勢を厳しく批判し、企業経営を専門経営者や財閥に委ねるべきだと説きました。オーナーを批判しながら財閥同族を評価した背景には、三井や三菱といった財閥が多くの株式を保有しながらも、経営の実務は専門経営者に任せていたという実態があります。財閥同族や財閥本社は資本市場からの「防波堤」として、外部の株主から経営陣を守っていたのです。言わば「君臨すれども統治せず」という姿勢に、高橋は一つの理想を見ていたのでしょう。
雇用面でも、日本型雇用システムの原型がこの時期形成されたといいます。
終身雇用と年功序列がいつ成立したかについてはさまざまな議論がありますが、私は第1次世界大戦後に最初にその形ができたと考えています。新しい産業についての知識や新しい技術に対応できるスキルを持つ人材が不足していたことを背景に、一部の企業では「新卒一括採用」や「社内訓練」を積極的に導入し、人材供給・育成の安定化を図りました。企業が相当の時間と費用をかけて育てた、職員層やいわゆる「子飼い職工」の技能や知識は、その会社独自のやり方に根差していることが多く、他社ではあまり通用しないものでした。これを「企業特殊的熟練」と呼びます。こうした人材育成の費用は、辞められると戻ってこない「サンクコスト」となるため、企業としては長く働いてもらい、時間をかけてその投資を回収したいというインセンティブが生まれます。
その手段として、年功に基づく定期昇給の仕組みが整えられました。長く勤めれば給料が上がっていくという制度にすることで、社員を社内に引き留めようとしたのです。こうした人材育成にはコストがかかるため、企業は長期雇用を前提に年功賃金制度を整備し、退職金や福利厚生など「内部労働市場」と呼ばれる日本特有の雇用慣行を形成していきました。これがのちの終身雇用制度の源流となり、大企業ではホワイトカラーからブルーカラーまで広がっていきました。
そして、年功序列や終身雇用に対応する形で退職金制度や福利厚生制度なども整備され、内部労働市場が形づくられました。もともとホワイトカラー向けに設計された制度でしたが、第1次世界大戦後の産業拡大に伴い、製造現場で働くブルーカラーにも浸透していきます。ただし、これはあくまで大企業での現象でした。中小・零細企業では、賃金の安い流動的労働力に依存する構造が続き、結果として労働市場の「二重構造」が形成され、戦後の高度成長期まで続きました。
最近では、「企業特殊的熟練」は失われつつあるともいわれるようになりました。IT技術などが普及し、スキル・知識がより汎用的なものになってきたためです。技術革新のスピードが速いため、OJTで技能、知識を身につけてもすぐに役に立たなくなってしまいます。それに伴い、終身雇用といったこれまでの日本型雇用も崩れ出しています。ただ、企業特殊的熟練がいまなお必要な企業では、終身雇用制が残っていくでしょう。