太平洋戦争イメージ写真はイメージです Photo:PIXTA

太平洋戦争末期、セーラー服を着て学校に通うことを夢見た女学生たちは、学徒動員によって兵器づくりの手伝いをさせられることになる。戦争の地獄を味わっていたのは、戦地で戦う男だけではなかったのだ。戦後80年が近づく今、彼女たちが語った言葉を改めて考え直す。※本稿は、朝日新聞社編『女たちの太平洋戦争』(朝日新聞出版)の一部を抜粋・編集したものです。

自分が作った風船爆弾が
子供の命を奪ったと知る

〈千葉県柏市〉山崎美和(主婦・61歳)

 私たち東京・九段の高等女学校生徒が、学徒動員で風船爆弾(注)づくりに従事したのは昭和19年(1944年)9月からであった。仕事の場所が東京・浅草の国際劇場と聞かされたときは、みんなどっと沸いたものだった。劇場も、当時は軒並み閉鎖されて兵器づくりの拠点になっていた。

 4年生は、残暑の中を連日浅草まで通った。劇場では、女子挺身隊のおねえさん方が先に働いていた。私たちはまず指導員から、巨大な風船づくりの作業手順と、秘密兵器であることなどを教えられた。

 多くの人たちが作業をしていた。私たちは、10人ほどが1組となって横1列に並び、大きな菊の花型をした厚紙を張り合わせ、1枚張るごとに手前にたぐり寄せては次の紙を張ってゆく。

 厚紙は上質の和紙をコンニャクのりで何重にも張り合わせ、それを菊の花型に裁断したものであった。直径10メートルの風船には、この菊の花型が約600枚ほどいるという話だった。

(注)日本が第二次大戦中、アメリカ本土を爆撃するために作った兵器。紙製の気球に爆弾をつけ、偏西風にのせて飛ばした(三省堂刊「大辞林」から)