作業に入る前にはヘアピンをはずし、つめがのびていないかどうかの点検がある。OKなら素足に足袋をはいて作業にかかる。いずれも風船の皮膜を傷つけないための措置である。

 秋も深くなると、がらんどうの劇場内は寒くてふるえるほどだった。厚紙を張ったあとの余分なコンニャクのりを押し出す作業のため、両手の指は傷だらけであった。休憩のわずかな時間は、トイレへいくヒマも惜しんで指を湯に浸していやした。

 風船爆弾は、制空権を奪われた軍部が、米国本土に一矢をむくいるために考案した奇襲作戦であったらしい。効果はどれほどのものだったのか。

 そんなことを知らぬ軍国少女は、邪心なく「尽忠報国」一途で働いた。後にそのうちの1個がアメリカ・オレゴン州で罪のない神父夫人や子供を含む6人を殺傷したと聞き、愕然とした。

戦時中の女学生たちは
セーラー服を着る夢すら叶わず

〈大分県別府市〉堤静香(主婦・61歳)

 昭和17年(1942年)セーラー服姿の女学生になる夢は破れ、へちま襟の上着と、当時私たちが「へこスカート」と呼んでいたタイトスカート風の不格好な制服での入学となった。

 授業短縮も多くなり、英語の時間は廃止され、勤労奉仕が多くなった。馬が走って固くなった近くの競馬場を、クワやスキで耕し、カボチャの苗を植えたりもした。

 翌年、2年生の時、勤労動員がかかり、スフ入りの黒の上着と、モモヒキに似たズボンと頭に鉢巻きをしめ、小倉陸軍造兵廠へ送られた。

 体が弱かったので、はじめは整図係などに配属になった。ある日、「ふ工場」(◯の中にふ)と呼ばれる風船爆弾製造工場にかえられた。

 風船を仕上げる工場だった。コンニャク糊で和紙を何枚もはり合わせ、乾燥した加工紙を、裁断する。それを下半球と上半球に分け、それぞれ7、8人から14、5人が横列に並び、「1、2、3」の掛け声と共につなぎ合わせて、つくり上げた。

 直径10メートルほどの風船を満球テストする際、薄いところは中に3、4人が入り、その部分を花びら形に切った補修紙ではる。この時ばかりは、夢の国にでも行った感じで疲れた体もいやされた。

 2交代で夜勤もあり、みんな疲れていた。風邪気味の友だちが出ると、風船の中でひと眠りさせ、見回りの先生が近づくと、外の生徒が合図した。中で作業中の仲間が眠っている友を起こし、互いに疲れた体をいたわり合った。