
人間魚雷に乗せられる者もいれば、サイパンで玉砕したり、共産軍の理不尽な裁判で銃殺される者もいる。戦争は容赦なく男の命を奪うが、奪われた女性側もまた深い悲しみを味わう。最愛の人を奪われるも、強く生きた女性たちの証言に迫る。※本稿は、朝日新聞社編『女たちの太平洋戦争』(朝日新聞出版)の一部を抜粋・編集したものです。
兄に会うため広島に行くも
すでに人間魚雷に乗った後だった
〈石川県加賀市〉宮下節子(家事・62歳)
「面会の知らせが来た。これが最後になるらしい」
母は涙で私たちに相談しました。次兄からのものでした。長兄は外地(当時の仏領インドシナ)へ従軍、面会はかないません。
舞鶴へ入隊した次兄は、広島県大竹にある海軍潜水学校へ移り、卒業後特殊訓練を受けていたらしいのです。当時、国鉄の踏切警手だった母は勤めの都合で面会には行けません。3歳上の19歳の姉と私の2人で行くことになりました。
列車の切符を手に入れるにも大変なころです。何日も前から申し込んでも、なかなか買えません。まして広島までです。幸い私の家は国鉄一家。父は保線担当、母は警手、長兄は出征するまでは管理部勤務、次兄も機関士でした。
そんなつてを頼って、ようやく切符を2枚回してもらえました。自分たちの弁当と、兄に食べさせるおはぎを持って、昭和20年5月4日深夜の大阪行きの列車に乗りました。
列車の中は超満員。通路に新聞紙を敷いて寝ておられるので身動きもできません。どうにか空間を見つけて姉と別々に通路に座ることができました。途中トイレなど行けるものではないので、前日から水分は控えての乗車です。