一番の楽しみは昼食だった。大釜の蒸気で炊いたご飯に、ふっくらした大豆がほどよくまじったオニギリ。つけ合わせはタクアンだったが、ごちそうに思えた。一般家庭はスイトンや大根葉、コーリャンの入った雑炊などが普通だった。

 食事の時は、3、4人が大きな荷車に木箱を重ねて、少し離れた所まで食事を受け取りに行った。分配係で、師範学校生の男子数人がいて、人数分のご飯をはかってくれるのだが、顔見知りになると、「これはおまけ」と言って、ちょっぴり量を多くしてくれた。

「みなさん、今日はオニギリが少し大きくてよ」

 と、帰ってから得意気に配ったものだった。敗戦と共に、学校に戻り、翌年8月の卒業時には、短期繰り上げの成績表と動員手当の預金通帳が支給された。

戦火に包まれていても
学生は明るく振る舞っていた

〈大阪府泉大津市〉嶺貴美恵(主婦・66歳)

『女たちの太平洋戦争』(朝日新聞社編、朝日新聞出版)女たちの太平洋戦争』(朝日新聞社編、朝日新聞出版)

「風船爆弾をつくった日々」(編集部注/朝日新聞の連載「女たちの太平洋戦争」に掲載された、別の女性の投稿文)を拝見しました。私もわずか2週間ほどでしたが、風船爆弾作りに加わった遠い日をしのびました。

 昭和19年(1944年)当時、私は北九州市小倉のある新聞社に勤務していました。銀行や新聞社など民間会社に勤める事務員までが、期限付きで軍需工場に動員されたのです。

 私は補修係に回されて、風船の内側と外側から友人と互いに指で示し合いながら薄い個所を補修していくのです。

 厳寒の2月でしたが、風船の中は暖かくてジャンケンで勝ったものが中に入るというひそかな楽しみを見いだしたものでした。風船爆弾作りは、勤労動員の学生さんが多かったのを覚えております。

 満球テストでのみんなの緊張した顔、顔……。テストが完了したときの歓声。あの若々しい声も、当時の青春を飾るひとこまだったのでしょう。

 2週間のうち、2度ほど、甘いぜんざいがふるまわれました。食べ物も衣類も切符配給制だった日々のこと、家にいる幼い妹に持って帰れたらと胸をつまらせたものです。

 凍るような“のり”の感触と、はち巻きを締めて明るく働いていた学生さんの姿が彷彿として思い出されました。