何回も逃げ出し、帰国を企てましたが、日本に帰り着くことができず、生き延びるため、仕方なく現在の中国人の夫と結婚しました。

 残酷な45年の月日が流れました。日本女性の苦しい心をご存じの方も多くいらっしゃると思います。さらに気の毒なのは戦災孤児です。何人くらいいるのでしょう。

 敗戦から40年を過ぎて、私は日本政府に帰国したいと申請書を書きましたが、政府は日本国の責任ではないような冷淡な態度でした。何度も命をかけて帰ろうとした日本に、昨年2月、3カ月の一時帰国が許されました。ボランティア、日中友好協会のみなさんの協力でした。

 祖国日本で見たものは、繁栄の中で日本人は過去の戦争をすっかり忘れている――こんな気持ちでした。日中十余年の戦争は庶民に大きな犠牲をしいました。私はいまだにその傷を引きずっています。

(注)この手紙は、出口さんから、かつてボランティアとして日本語を教えていたことがある、西宮市の村木久彌さんに届けられたものです。原文は日本語ですが、日本語の記憶が薄れ、たどたどしくなっている部分は、村木さんが補って書き直しました。

“婦女子の奉仕”の危機から
救ってくれたのは元慰安婦

〈兵庫県川西市〉入江徳子(主婦・68歳)

 終戦を旧満州(中国東北部)通化市で迎えた私たちの間で、当時、ソ連軍の進入駐屯が話題になった。チチハル・ハルビン(黒竜江省)地方でのソ連軍の蛮行が流言飛語であればよい、と願いながら毎日を送った。

 そのうち多数のソ連軍が駐屯司令部を置いた。関東軍が兵や物資を集積していたので、捕虜や軍需品などの輸送のためらしい。一応、上官の命令で、家屋侵入、婦女暴行などの禁止令はあったようだが、家屋侵入は日常茶飯事。しかし、婦女暴行は聞かなかった。

 しばらくしてから日本人会に対し、男子の使役と共に“婦女子の奉仕”を申し渡してきた。

 我々日本人が、敗戦の痛みのうえに、人間としてのはずかしめまで甘受しなければならない悲しい立場に置かれた。日本人会代表も思案の末、男子の使役は致しかたないにしても、女子については相当悩まれたことと思う。

 当時、偶然にも元慰安婦だった人たちが、通化で足止めを食っていた。その人たちが犠牲になってくれたのである。私たちは、犠牲になってくれる人のために大切にしていた訪問着や晴れ着を感謝しながらできるだけ提供した。