「建物を開放し、女を差し出せ」
ソ連軍の要求を拒んだ男
〈香川県高松市〉那須佐紀子(主婦・62歳)

昭和20年(1945年)8月15日、旧満州(中国東北部)の范家屯という所で、敗戦のご詔勅を聞いた。范家屯には、全満教員錬成所があり、私は牡丹江市に近い寧安県芦屯在満国民学校より参加、8月2日から講習を受けていた。
正午からの重大放送のため、受講者全員で聞いたが、とぎれとぎれの電波に、まだ敗戦を信じることが出来ないでいた。
2、3時間もたたないうちに、ソ連兵がジープの音も荒々しく、私たちの宿舎に乗りつけてきた。軍靴がドカドカと廊下にめりこむほどに響き渡った。不気味な笑いと重々しい金属音が迫るのを、引き戸1枚を隔てただけの近さの所で私たちは聞いていた。
身を寄せ合っていたが、早鐘のように打つ自分の心臓の鼓動が分かった。「早く過ぎよ。早く去れ」と念じながらも、あのノモンハン事件の悲劇を連想していた。
突然、オルガンが鳴り始めた。そのリズムは、ゆるやかによどみないものだった。しばらくの間、敗者も戦勝者もなく同じ空気の中にひたっていた。
オルガンの音がピタリと止まった。ソ連兵は凱旋の叫びを上げ、口笛をピーピー鳴らしながら引き揚げていった。
私たち全員は無傷で助かったことの喜びに、涙を流し抱き合っていたが、その喜びもつかの間、次の恐怖が待っていた。
いまいる建物を開放し、ソ連兵の倍の数の婦女子を出せという要求だった。
直ちに私たちは大広間に集められた。最高責任者である山田茂衛門教官より、最後の熱い熱い訓示を受けた。この時、山田教官は、あるものを覚悟なさっていらしたのではなかろうか。
講習の終わりが告げられ、全員で『大和の春』を歌った。その詩は、何事にも耐えて生きよ、という内容だった。遠く祖国日本を憂えながらの、涙の決別の歌だった。
私たちは、その夜のうちに、闇にまぎれて散り散りになって逃げた。その後、山田教官は、私たちを逃がしたことの責任を問われ、臨月の奥様の目の前で撃たれた、と伝えられてきた。
師をかこみ
涙垂れつつ歌いたる
敗戦の夜の決別の歌