2015年10月、母は「多系統萎縮症(たけいとういしゅくしょう)」と診断された。体を動かす機能が徐々に失われていく、神経の難病だ。母はまだ67歳だった。

 順天堂大学医学部附属静岡病院で病名を聞いた母は、子どもに伝える前に自らパソコンで検索し、「平均5年で車椅子、8年で寝たきり、9年で死亡」という文言を目にしてしまったらしい。そのときの母の衝撃はいかばかりか。しかも当時、私は鎌倉、妹はアメリカ、弟は東京に住んでおり、下田の母の元にしょっちゅう通うことは不可能だった。そばで甲斐甲斐しく母の世話を焼いてくれるSさんの存在が神様のように思えた。

 その年の大晦日、私と弟は下田へ行き、母と3人で新しい年を迎えた。

 母はちらし寿司にのせる薄焼き卵をつくろうとしていたが、「うまくかき回せないから、アンタやって」と、器ごと私によこした。黄身と白身を混ぜ合わせるには、手首のスナップが肝心だ。でも、母にはそれができない。ここまで進行したのかと内心ショックだった。聞けば、近所を歩いていたらパトカーが寄ってきて「大丈夫ですか?ご自宅まで送りましょうか」と言われたという。もうまっすぐ歩けないのだろう。私はつとめて明るく「格好いい杖を買うから、それを使いなよ」と、パソコンを開いてその場で注文した。

母の介護をめぐる
姉弟間の役割分担

 東京へ帰る車中、運転をしていた弟が「お母さんをあの家にひとりで住まわせておけない。僕が引き取ってもいい?」と言った。下田の母の家はその時点で80年は経っていてどこもかしこも古く、寒く、何より寝室のある2階へと上がる階段が、梯子並みに急だった。弟の決心には感謝しかなかった。

 翌2月、弟は母を自分の家へと迎え、2017年6月末までの1年4ヵ月、食事の世話や病院への送り迎えをしてくれた。

 弟は料理がうまい。食いしん坊の母にとって、弟のつくる食事は日々のいちばんの楽しみだったろう。実際、母の顔色は下田にいたときより、ずいぶんとよくなった。信頼できる誰かがつくる食事、その誰かとともに囲む食卓は、こんなにも表情を明るくするのだなと思った。

 私はせめてもの意味で、弟に毎月3万円を払うことにした。そう申し出ると、弟はこう言った。