私はそれ以来、算数が大嫌いになった。単位制の総合高校に入学し、数字とは完全に決別した。化学も嫌い、物理も嫌い、歴史も地理も嫌い。国語はちょっと好き。しかし私はどうにかして「頭が良い」と思われたかった。だから実際に頭を良くする努力はせずに、頭が良さそうな受け答えを覚え、頭が良さそうな表情を作ることに専念することにした。そして、本当に頭が良い人に「あわちゃんは頭が良い」とお墨付きを貰うことで、自分も「頭が良い人」の仲間に入れてもらおうと考えた。
「地頭が良い」という言葉に
うっすら嫌悪感を抱く理由
23歳の頃付き合っていた人は頭の良い人だった。彼はまさに私の理想の「勉強ができる人」だった。付き合って間もないある日、彼は彼の友人に向かって、私のことを「こんなに頭の良い人はいない」と紹介した。私の思惑はついに達成された。心のなかではガッツポーズをして舞い上がったものの、私の顔はそれを決して表には出さず、相変わらず伏し目がちにうっすらと微笑んで「困ったな」という表情を演出した。

彼は誰が見ても明らかに私にデレデレだった。彼が私を頭が良いと勘違いしたのは、恋心が起こした誤作動のひとつに過ぎないのだろう。私はそんなことにも気づかないままどっぷりと優越感に浸った。そうか、私はやっぱり地頭が良いのか。勉強はできなくても、私は頭の回転がはやいのか。そんな私の哀れな勘違いは、数カ月前にIQテストで80台前半を叩き出すまでのあいだ、数年間続くことになった。
私が最近になって「地頭が良い」という言葉にうっすらと嫌悪感を抱いているのは、他でもなく自分自身のことを「地頭が良い」と勘違いしていたからだ。地頭という言葉は一体、どれほどたくさんの人のなけなしのプライドを支えているのか。自分の頭が大したものではないと知ってしまった今でも、あの日彼から言われた言葉をときどき思い出して、私はなんとかすまし顔を作るのだ。
だいじょうぶ、私は地頭が良い。