朝ラッシュ時の利用者急増で
常磐開発線は喫緊の課題に
『三十年史』は常磐開発線について、「筑波学園都市(22万人)の開発整備にかんがみ、鉄道による交通の盲点となっている野田地区をも救済し、水戸に至る新線である。この開発線沿線は筑波学園都市及び野田線、関東鉄道沿線の住宅公団、民間デベロッパー等による住宅建設が活発である。新線建設により、筑波学園都市と都心間の業務客輸送、常磐線の混雑緩和が期待される」と解説している。
「野田地区」と「水戸」は計画変更されたが、つくばエクスプレスの骨格はこの時点でほぼ固まっていたことが分かる。都心側は田端から山手貨物線経由で大崎まで乗り入れる案、常磐線と同じ上野に乗り入れる案、地下鉄半蔵門線に直通する案などが検討された。
国鉄にとって常磐開発線は喫緊の課題であった。常磐線の朝ラッシュ1時間当たりの旅客通過人員は1975年に9万人だったが、1980年の試算では1985年に13万人、1990年には14.6万人まで増加。増加率では「五方面」最大となる1.6倍になると想定しており、現行輸送力のままでは1990年に乗車率が333%に達する恐れがあった。
茨城県にとっても筑波の交通問題は悩みの種だった。筑波学園都市は自動車交通中心の設計思想で、公共交通機関は路線バスに頼る状況であった。土浦駅と新交通システムで接続する案もあったが、採算面で実現しなかった。
東京との行き来は、路線バスで常磐線土浦駅または荒川沖駅に出るのが一般的なルートだったが、筑波から上野までの総所要時間は2時間近くかかった(高速バスは1987年運行開始)。また、当時の常磐線は、朝ラッシュ時間帯は混雑率250%近くに達する半面、昼間の運行頻度は1時間に1本程度という使い勝手の悪い路線であった。
そこで茨城県は1976年、東京大学工学部教授で交通計画の重鎮・八十島義之助氏を委員長とする「茨城県県南県西地域交通体系調査委員会」を設置し、1978年に「都内~水海道~学園都市~石岡~水戸」を結ぶ路線の整備が必要との報告書を発表した。