自我を捨てた先にも
成長や成熟がある
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大半の人は前者の「何者かになる」ほうが気持ちが落ち着きやすいのかもしれない。私もそうだ。でも年を重ねるごとに何かを追求して手に入れる生き方に苦しさを感じるなら、別の生き方もあると思えば、気持ちがラクになる。
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会社組織ではビジョンやミッションがあり、そこでリーダーシップを発揮する人は「何かを獲得して何者かになっていく」というパワーが強いと思います。だから「まあまあ、いいじゃないか」という自我を無くしていく姿勢は「成功を諦めた人生」「降りた人生」のように感じるかもしれません。
でも、自我を捨てた先にも成長や成熟があって、企業に、また社会に貢献していくことができるんじゃないかとも思います。
「ハードシングス(Hard Things)」という「明快な解決策が存在しない困難」を示す言葉があります。私はハードシングスには2種類あると考えていて、ひとつは何か具体的な大変なことがあり、それを頑張って乗り越えた時に得られる自信です。こういった人は「やればできる」という強い信念をもち、人生を進んでいく。先の話でいえば、何者かになる方向でしょう。
「何かを獲得して何者かになる」道は
老害になるリスクも
そしてもうひとつは、具体的な大変なことはないけれど、頑張っても頑張っても、誰にも見向きもされない不遇な困難です。自分は何かになりたかったのになれていない、誰も自分のことを気にしていなくてまるで機械のように淡々と仕事をする日々――けれどもこのハードシングスを経験した人は自我が解けて柔らかくなり、中は空っぽなのに深みがある。
だから人の話をきちんと傾聴できたり、トラブルや問題解決能力が高かったりするかもしれません。組織の中で「あの人がいると何だかチームがうまくいく」「会議室でその人がただ頷いているだけでみんなの心が落ち着いていく」というような、数字には表れにくい貢献をしていくでしょう。
一方で、「何者かになる」ということは、「自分は正しい」という強い信念が必要になるので、能力が高ければいいですけれど、そうでない場合は「もしかして、自分はいない方がいいんじゃないか」という気づきに至らず、老害になって周囲の人の力を奪ってしまう可能性がある。
何者かになれなくても
あらゆるものを受け入れていく道も悪くない
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アスリートの世界にいた為末さんが、「自我を無くしていく道」を選ぶのは意外だ。
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私は、自分がすごく弱いんじゃないかと思う時があります。本来は弱くて繊細な文学少年が、うっかり足が速かったばかりに「体育会の世界」に紛れ込んでしまったみたいな(笑)。表面上はマッチョでも、内面はそうじゃないから、逆に自分の弱さを見ることが多かったかもしれません。だから強いものより弱いほうにシンパシーを感じますね。
個人的な痛みや苦しみを味わっていくほど、弱さへの共感があり、人の気持ちがわかります。ピークを過ぎても、何者かになれなくても、中身が空っぽになってあらゆるものを受け入れていく道もまた悪くないと思いますね。
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