私はいかに「ウォール街の顔」になったかニューヨーク証券取引所でiPadを片手に数字を確認するピーター・タックマン氏(8月) Lanna Apisukh for WSJ

 私はずっと「ウォール街のアインシュタイン」だったわけではない。

 しかしニューヨーク証券取引所(NYSE)で最も写真に撮られたトレーダーになったことで、今ではほとんどの人がこのニックネームで私を認識している。表情豊かなリアクションと、(アルバート・アインシュタインのように)U字型に生えた白髪で、日々の市場の動きを伝えるニュースに彩りを添えている男がこの私だ。株価が急落あるいは急騰して、投資家がそれをどう理解すればいいかを知りたがる、値動きの荒い日は特に出番が多い。

 実際、市場が大きく下げた2007年2月下旬のある日――金融危機の一番早い前兆だった――、私は初めて一般の人々の目に触れることになった。キャリアも半ばを過ぎた私は「今度はダウに何が起きた?」という見出しと共にニューヨークのデーリーニューズ紙の一面を飾った。この紙面は額装して自分のオフィスに飾っている。

 これが私の人生で最高の時代の始まりだった。当時から今に至るまで、私は(決して大げさではなく)何千枚という市場の写真に登場し、何百という新聞1面に載り、世界中のテレビに数えきれないほど出演しては株価の動きについて説明している。今でも毎日のように、証券取引所のフロアから市場の動向や乱高下を語る私の姿が主要メディアで取り上げられている。ついには道を歩いているときに気付かれるようになった。亡くなった妻のリーセと、子どものベンジャミンとルーシーにとって、これは誇りの源になった。

 人々の目に留まっているのが、私の表情豊かな顔と軽快な振る舞いであることは明らかだ。このことは今でもちょっと奇妙なことに思えるが、私はウォール街とNYSEの顔であることを光栄に思い、恐縮している。

アメリカンドリーム

 しかし私の人生の物語は、写真映えする市場の象徴としての20年間だけではない。ニューヨーク育ちの私の世界を形作ったのは、両親の経験だった。ホロコーストを生き延びた両親は第2次世界大戦後、避難民収容所で出会った。父はホロコーストから生還し、戦後ドイツで医学校への入学を初めて許可された30人のユダヤ人学生の1人だった。ドイツには学位取得のため1949年まで滞在し、その後は医師としてのキャリアを始めるため米国に移った。

 両親は私にあらゆる機会を与え、物事を深く探求するよう勧めた。大学で農業と国際金融を学んだあと、私は与えられた機会をできるだけ多くつかんだ。有名なナイトクラブ「スタジオ54」でドアマンとして働いたり、グリニッジビレッジのブリーカーストリートでレコード店を始めたり、夜間にビジネスの修士号の取得に向けて勉強しながら、コモディティー(商品)を取引したりした。こうしてニューヨークで時間を過ごしたあと、西アフリカにたどり着き、ノルウェー系石油企業の会計係として働いた。その後、両親から、帰国して落ち着いた生活をしてはどうかと勧められた。