たまたま同じ時期に育休中だった友人の細田咲江さんに連絡して相談しました。彼女は私よりも人事の経験が長く、労働組合の委員もしていて、会社に短時間勤務制度を導入した立て役者でした。そんな細田さんと協力することで勇気百倍となり、新事業の車輪が大きくぐるんと回り、前に進むのを感じました。
会社員時代に知り合ったマスコミのみなさんにアドバイスをもらって「ハナマルキャリアコンサルタント」と名づけ、まずは女子学生の就職支援からスタートです。当時は女性の起業は珍しく、またSOHOスタイル(スモールオフィスホームオフィス)をとったのでマスコミに取り上げてもらえました。「起業のご祝儀代わりですよ」と専門紙さんや新聞社さんに記事を掲載してもらいました。本当にありがたいスタートでした。今も感謝は忘れません。
そこから半年後には「日経アドレ」という日経ホーム出版(現在の日経BP)社から出されていた就職雑誌にコラムを持たせてもらい、すぐに初めての講演をしました。日経アドレ主催で大手町のJAホールに、500人もの女子学生を集めてのものでした。
こうしてハナマルキャリアは大海原に漕ぎ出しました。当初の仕事は女子学生の支援でしたが、2年目からは男子学生も、3年目からは新卒だけでなく転職市場にと領域を広げていきました。
1997年に発生した
山一證券の倒産が転機に
そして1997年がやってきます。この年は人材業界にとって大きな転換点とも言える年だったように思います。何があったか若いみなさんはご存じない方も多いでしょうが。

その忘れもしない1997年。何が起こったかというと、山一證券の自主廃業です。誰もが予想だにしなかった大手証券会社の自主廃業、すなわち倒産です。北海道拓殖銀行の経営破綻もあり、政府が必ず守るであろうと思われた金融業界の2社が倒産したことで、世間には大きな衝撃が走りました。
山一證券の自主廃業は氷山の一角にすぎず、その陰で他の多くの中小企業が倒産しており、勤めていた人々は突如路頭に迷い、転職先を探しにフェアに押しかけたということです。その大混雑ぶりは、あのテレビで見た大行列の女子学生を思い出させました。4年後には働き盛りの会社員までもが仕事探しに汲々とするようになった、その現場で私も翻弄(ほんろう)されていました。振り返れば、この1997年が、社会の在り方、働き方にとって大きな転換点となった年だったと思います。「リストラ」という、嫌な言葉が生まれ、多くの人が転職を余儀なくされるという転職市場が出現したのです。