リーダーに求められるものは何よりも「人格」だ

 そもそも、組織を率いる人間に求められる資質とは何か考えよう。

 多くの組織では、弁が立ち、頭の回転が速く、そつなく物事をこなす人物が評価され、管理職へと昇進していく。会議でよどみなく話し、データを駆使して相手を論破する。その姿は、いかにも有能に見える。

 しかし、多くの場合、それは見せかけの能力に過ぎない。

 その人物の行動を注意深く観察してみるといい。部下の手柄を自分の成果として横取りし、自らの過ちは巧みな言葉で取り繕う。組織の数字や目標達成には執心するが、働く人々の心や人生には一片の関心も示さない。自分の評価と保身のためだけに動き、言動は風見鶏のように揺れ動く――。

 このような人物は、リーダーの名に値しない。

 組織に巣食い、従業員の意欲を静かにむしばんでいく有害な存在である。存在自体が、組織にとっての純粋な損失であり、一刻も早く排除されるべきだろう。

 稲盛氏は、リーダーに求められるのは才能や弁舌ではなく、まずもって人格であると繰り返し説いた。

 では、優れた人格とは何か。決して聖人君主であることではない。むしろ「卑怯なことをしない」という人間としての最低限の道徳観を、どんな状況でも貫き通せる強さのことである。

 自分の利益のためにうそをつかない。仲間を裏切らない。困難から逃げ出さない。そんな当たり前のことを、当たり前にやり遂げる誠実な姿勢こそが、部下からの信頼を生み、組織を一つにまとめる力の源泉となる。

 口先のうまさや要領の良さなど、本質的な信頼の前では、何の価値も持たないのである。

 では、人格はどうすれば磨かれるのか。滝に打れるような特別な修行が必要なわけではない。稲盛氏の答えは、驚くほど単純である。

「日々の仕事に、ひたむきに打ち込むこと」

 目の前の業務に一所懸命に取り組み、困難から逃げず、誠実に努力を重ねる。地道な繰り返しこそが、人間性を高め、人格を陶冶する唯一の道であると説く。

 仕事とは、生活の糧を得るための手段であると同時に、自らの魂を磨くための修行の場ということだ。

 稲盛氏の思想は、一度きりの成功だけを誇張した個人的な経営論ではない。