
昨冬、米メジャーリーグの全球団が佐々木朗希投手を獲得したがっていた。しかし、渡米1年目の経過を見ると、その理由を理解するのは必ずしも容易ではなかった。
佐々木はシーズンの大半で、太平洋を越えて付いてきた絶大な評判通りの活躍ができなかった。しばしば時速100マイル(約160キロ)以上に達して日本で称賛された速球は、ロサンゼルス・ドジャースでの初期の登板時には、はるかに平凡な同96マイル程度にとどまった。制球も不安定だった。彼はまるでメジャーリーグのマウンド以外のどこかにいたいと思っているかのように見えることが多かった。
その後、肩の負傷を受けて、4カ月以上にわたり表舞台から姿を消した。
「令和の怪物」と呼ばれたこの投手が恐怖に陥れていた都市は、本拠地だけだった。
だからこそ、彼のポストシーズンは非常に衝撃的なものになった。ドジャースのリリーフ投手陣が壊滅状態にある中で、佐々木は10月に主力として浮上した。先発投手ではなく、チームが喉から手が出るほど必要としていた予想外のクローザーとしてだ。これまで6イニング投げて2安打1失点に抑え、重要な2度のセーブ機会で成功を収めた。
23歳の佐々木はほぼ一夜にして、衰えつつある天才から、ドジャースが1月の契約時に思い描いていた急成長のエースへと姿を変えた。他のリリーフ投手の成績が振るわなかったことを考えると、彼の復活はドジャースがワールドシリーズ進出まであと2勝となっている最大の理由かもしれない。
ドジャースの先発投手タイラー・グラスノーは「復活してブルペンから登板するようになって以来、彼は正直、自分が今までに見た中でもトップクラスの投手だ」と語った。
誰かが佐々木についてこんな言葉を発するなんて、今でもほとんど信じられない。彼はほんの1カ月前にはドジャース傘下の3Aオクラホマシティーでリハビリをしていたが、それがうまくいっていなかったからだ。
佐々木はもう負傷した状態ではなかった。ただ、誰もアウトにすることができなかった。速球は時速94マイル前後にまで落ちていた。マイナーリーグの選手たちは彼をバッティングの練習相手のように扱った。
状態があまりにも悪かったため、ドジャースのデーブ・ロバーツ監督は9月初め、失望して「もっといいところを見せてほしい」と語っていた。
その時点で、佐々木がポストシーズンの戦力としてほぼ見限られていた。