地図でその立地を見てほしい。

 御堂筋のすぐ東側にある。3、400メートルほど北上すれば、そのままパレードの御堂筋につながる。

地図2 南海電鉄と旧大阪球場、そして御堂筋同書より転載 拡大画像表示

御堂筋は南海の縄張りだから
他の球団は手を出せなかった

 この目抜き通りは、南海電鉄やホークスの拠点と言ってもいいエリアに接していた。御堂筋のパレードを、南海は地元での感謝祭めいた催しとしても、認識していたろう。

 当時の在阪と言いうる球団に、本拠球場がこれだけ近いところはない。阪神の甲子園球場や阪急の西宮球場は、遠くはなれている。近鉄の日生(日本生命)球場や藤井寺球場も、その点はかわらない。御堂筋を地元の大通りと位置づけられる度合いでは、南海が群をぬく。ここでのパレードは、その点でも南海のイベントとして了解されやすかったろう。

 くりかえすが、御堂筋は大阪を代表するメインストリートである。ここでの凱旋にあこがれた球団は、南海以外にもあったろう。たとえば、阪神の戸沢一隆球団代表は、1958年に、こう言っている。「ぜひ選手権をとって御堂筋をパレードしたい」(『週刊朝日』1958年6月1日増大号)、と。南海が挙行する、その1年以上前に。

 それでも、他の球団はここでの行進にふみきらない。優勝をしても、日本一になっても、はばかった。御堂筋に隣接する大阪球場が、本拠となる。そんな南海に、他球団が遠慮をした可能性は考えうる。あそこは、南海のシマだ。うちは手をださないほうがいい、と。少なくとも、南海という球団のあった1988年までは。

 南海以外の球団が御堂筋で優勝をいわいだしたのは、21世紀になってからである。そして、その口火は2003年に、阪神がきった。この年、阪神は闘将と言われた星野仙一にひきいられ、セ・リーグで優勝する。日本シリーズには、勝てていない。