橋本選手は日本と同じようにバチバチ蹴ったりする試合をしてたんだけど、それをカルガリーの選手たちが嫌がったって聞いた。それにリング外とかでいろいろイタズラしたせいで、今でいうコンプライアンス違反で出場停止も喰らったと。それで本人もいろいろ模索して、荒川イズムを継承したコミカルな動きも取り入れたというけど、硬い攻めは変わらずだったらしいね。
闘魂三銃士の企画は、ロスで生まれたと聞いている。猪木さんがケガのリハビリでロスに滞在していたところに、カルガリーで試合を干されていた橋本選手が付き人ということで一緒だったんだよ。そこに東スポかなんかが絡んで、闘魂三銃士のアイディアが出たんじゃなかったかな。それで俺たち3人が選ばれて、まずはプエルトリコでメディア用に画づくりをして、それから有明コロシアムで凱旋試合をするという流れが決まった」
「時は来た。それだけだ」
橋本の名言に蝶野が感じたこと
この凱旋試合は強烈なインパクトを残し、闘魂三銃士は一気にファンの注目を集めるようになった。やがて、3人はそれぞれ正式に帰国を果たし、あらためて新日本マットで活躍を続けていく。
なかでも世代交代がテーマとなったのが、90年2月10日に東京ドームで組まれた、猪木&坂口VS橋本&蝶野の試合だ。この一戦が伝説と化したのは、内容もさることながら、試合前に展開したアピール合戦である。
まず出番直前の控室でテレビアナウンサーからコメントを求められた猪木が、「出る前に負けること考える馬鹿がいるかよ!」とアナウンサーにビンタを一撃。緊張感が高まるなか、カメラが蝶野&橋本組の控室に切り替わると、橋本の名言「時は来た。それだけだ」が生み出された。
「この東京ドームの試合は日本に戻ってきてからしばらく経ってたんだけど、それでもまだ上には猪木さん、坂口さん、藤波さん、長州さんがいて、俺自身はまだまだ先は長いな、と感じていた。でも橋本選手は、1人ずつぶっ倒していけば、すぐ上にいける、世代交代が果たせる、くらいの自信が当時からあった。







