とりわけスポーツベッティングの台頭は、選手個人を一種の株式や投資対象のように見なす視線を定着させてきた。この構造においては、株式市場と同様、強い選手や有名な選手が価値を持つのは当然なこととして、賭けやすい選手やデータが取りやすい選手が優遇される。

 勝敗の背後にある人間性やストーリーは、アルゴリズムによってフィルターにかけられ、勝率と変動率へと変換されていく。チーム競技とは異なり、統計的に予測しやすいうえに試合頻度も多いテニスや卓球は、ベッティング事業者にとっては理想的な商品である。

 Setka Cupのように日常的に多くの試合が行われる環境は、選手たちのプレッシャーを高めるだけでなく、競技の透明性をも脅かしている。

『スポーツと賭博』書影『スポーツと賭博』(相原正道、新潮社)

 スポーツにとって経済合理性とは何を意味するのか。本来、スポーツは勝敗を競うことだけに価値があるのではない。そこに至るまでの鍛錬や戦略、偶然性や感情の揺れこそが、観る者に感動をもたらす。

 しかし、ベッティング市場ではそれらはリスク要因と見なされ、数値的予測の誤差として排除される。

 競技の不確実性は、スポーツの醍醐味であると同時に、ベッティングにとってはリスクでしかない。このねじれが、近年のスポーツにおける倫理的ジレンマを生んでいる。

 賭けの文脈で語られるスポーツには、公正や努力といった価値が形式的にしか存在しない。代わりにそこにあるのは、「いかに損をしないか」「どうすれば勝率が高まるか」という消費者目線の倫理である。