独創的なアニメーションを次々ヒットさせ、世界随一のクリエイティブな企業としても多くの人が憧れる、ピクサー・アニメーション・スタジオ。その共同創業者であるエド・キャットムル氏の著書『ピクサー流 創造するちから』より一部を紹介する。今回は、再びスティーブ・ジョブズと再会し彼の出資を受けてピクサーを共に立ち上げるまでの最終局面で、エドがジョブズを観察しながら感じたことや覚悟を語る。

ピクサー スティーブ・ジョブズ

スティーブ・ジョブズとの再会

 数カ月が過ぎた。『アンドレとウォーリーB.の冒険』公開から1周年を迎えようとしていたころ、存続の危機と救済者不足に陥ったときに味わうような焦燥感をいよいよ隠しきれなくなっていた。それでも運はあった。少なくとも地理的には。1985年のシーグラフ会議は、シリコンバレーから国道101号線を上ったサンフランシスコで開催された。我々はその見本市会場のブースを借りてピクサー・イメージ・コンピュータを展示した。初日の午後にスティーブ・ジョブズがブースに立ち寄った。

 私はすぐにある変化を感じ取った。最後にスティーブと会った後に、彼はNeXTというコンピュータの会社を設立していた。だからこれまでとは違う思いで我々にアプローチできたのだろう。我々にいいところを見せる必要がなかった。ブースを見渡し、この会場で我々のマシンが一番面白い、と褒めた。そして「ちょっと歩きませんか」と言うので、一緒にホールの中を回り始めた。「その後どうです?」

「よくないですね」と私は正直に告白した。まだ買い手を見つけたいと思っていたが、候補がほとんど尽きていた。すると、話を再開させようとスティーブが提案した。「何とかできるんじゃないかな」と彼は言った。

 話を続けるうちに、サン・マイクロシステムズの創業者の一人、ビル・ジョイに行きあった。ビルは、スティーブと同じように並外れて頭がよく、勝ち気で、自分の意見をはっきり言う頑固者だ。二人がこのときどんな立ち話をしたのかは覚えていないが、その話し方は今でも覚えている。両腕を後ろ手に組み、鼻を突き合わせるようにして立ち、完全にシンクロして左右に体を揺らしていた。周りで起こっていることにまったく気づかない様子だった。その状態がかなり長い間続いたが、ようやくスティーブがほかの誰かと会うために話を切り上げた。

 スティーブが立ち去ると、ビルは私のほうを向いて言った。「まったくもって傲慢な男ですね」

 その後、うちのブースに戻ってきたスティーブが私のところに来て、ビルの感想を言った。「まったくもって傲慢な男でしたね」

 私はこの「タイタンの戦い」の瞬間に衝撃を覚えたものだ。二人とも相手のエゴに気づいていながら、自分のエゴには気づいていなかったのだから。

「難しい人間」という評判

 それからまた数カ月が経った。1986年1月3日、スティーブはいつでも契約をまとめる用意があると言った。そして我々が最も心配していたこと、つまりスティーブが買収後の会社を牛耳ると言い張ったことは取り下げてもいいと言い、さらにはコンピュータとグラフィックスを結合させて新たなビジネスを探ることも容認すると言った。

 ミーティングが終わるころには、私とアルヴィは彼の提案と、彼の意図に満足していた。ただ唯一の不確定要素は、彼がパートナーとしてどのようにふるまうのかということだった。彼が難しい人間だという評判をよく聞いていた。評判が正しいかどうかは、時間が経てば自ずとわかるだろう。

 この時期に、私は一度スティーブに会い、人と意見が食い違ったときにはどうしているのか、とさりげなく尋ねたことがあった。それは、私が彼と一緒に働いた後のことを遠回しに聞いたつもりだったが、彼は気がつかなかったのか、一般的な答えを返してきた。

「意見が一致しないとわかったときは、説明のしかたを変え、時間をかけて、相手に正しいことを理解してもらうだけです」と彼は言った。

 後で私からこの話を聞かされたルーカスフィルムの同僚たちは、笑った。苦笑だった。以前スティーブの弁護士の一人に、スティーブに買われたら最後、「スティーブ・ジョブズ・ローラーコースターに乗る」覚悟が必要だと言われたことがあった。この苦境を乗り切るためと私とアルヴィは覚悟した。

味方としては最強の男

 ルーカスフィルム側の交渉人があまり優秀でなかったことから、買収は混乱した。とくにCFO(最高財務責任者)は、スティーブを、よくいる背伸びした金持ちの若造と甘く見ていた。このCFOは、交渉の席で優位に立つにはその部屋に最後に現れることだと言い、出席者全員を待たせられる人間は自分しかいないのだから、自分こそが「最強のプレイヤー」なのだと、公然と私に言い放った。

 だがそれは、彼がスティーブ・ジョブズのような人間に出会ったことがないだけだった。

 重要な交渉が行われる日の朝、CFOを除く全員が時間どおりに集まった。スティーブ、スティーブの弁護士、私、アルヴィ、我々の弁護士、ルーカスフィルムの弁護士、投資銀行の担当者。午前10時きっかりに、スティーブは部屋を見渡し、CFOがいないのに気づいたがそのまま会議を始めてしまった! スティーブは素早い動き一つで、序列の頂点に立とうとしたCFOの企みをくじいたばかりでなく、会議そのものを掌握した。

 このような戦略的・野心的な立ち回りが、ピクサーの投資家としてのスティーブの責任の全うのしかたを象徴することになる。仲間になるや、スティーブは我々の庇護者として、わが身のことのように一途に守ってくれた。結局、ピクサーをルーカスフィルムから分離独立させるために500万ドル支払い、買収後に新会社の経営資金としてもう500万ドル支払って、株式の70%をスティーブが、30%を社員が保有するかたちとなった。

 最終契約は1986年2月のある月曜日の朝に締結されたが、交渉で消耗しきっていたせいか、部屋の中は静まり返っていた。契約書に署名した後、スティーブが私とアルヴィを呼んで両腕で我々を抱きしめてこう言った。「何があっても互いに忠誠を尽くしましょう」。それはアップルから追放され、いまだ癒えぬ心の傷が言わしめた言葉と私は受け取めたが、一度も忘れたことはなかった。妊娠期間は苦労の連続だったが、威勢のいい小さな会社、ピクサー・アニメーション・スタジオが誕生した。